両性具有文学
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  無題 テレビに出て  両性具有道薀蓄


 先日、日本テレビの<今日の出来事>という番組の半陰陽者についての特集で、若松ふみかという名前で紹介されたのだが、春先から晩秋まで何回か取材を受け、ワタシの特異性が大勢の視聴者に明らかになることに若干の不安と心苦しさと喜ばしさを感じ、その度に心臓がドキドキするのを抑えられなかった。性的・肉体的特異性を明らかにするのは、とても勇気がいることでもあった。プロデューサーの柔らかな応対によって心配事は幾分薄らいでいたのだが、放映される夜は、殊の外心臓がガタガタと騒いだ。
 番組を見ていて、“インターセックス者は圧倒的に少数であるので、どちらかの性に組み込まれるのが適切である”という一般的判断に、当事者はなかなか逆らうのが難しいのだが、「逆らいたい理由があるんだ」ということを、かなり生々しく感じた。その理由について、プロデューサーには、前もって伝わっていたと思われるが、それを補足したいので、ここで書いてみることにする。

 自分がどちらかの性に入るのは気が乗らない、ということもある。それを述べる前に、“半陰陽者”と“両性具有者”の言葉の意味の違いを明確にさせておこう。“半陰陽者”というのは、一般的な意味における、普通の男や女と違う、どっちつかずの肉体上の性の持ち主の総称で、いろいろなヴァリエーションがある。一方、“両性具有者”というのは、半陰陽であるが、両方の性の要素を持って生まれ、どちらかの性として生活しているにせよ、意識的には両性であると自覚している人のことである。医学用語では、半陰陽者はインターセックスと呼ばれ、両性具有者はハーマフロダイト(ヘルマフロディトス)とされている。




未完の墓
 さて、両性具有者の場合、“男でもあり女でもあるが、その片方になるのは難しい”という感覚を常に持っている。まず第一に、戸籍の性別には男と女しか無いということが大きな足枷なのだが、それではそこに、“第3の性”とでも入れると、「あの人、性的異常者だわ」と差別の後ろ指を差されることになるので、それも厭なことである。セクシャルマイノリティ(性的少数者)の悲哀とでもいうのか。
 それで医師は、どちらかの性に組み込むのが適当であると判断し、その方向に誘導しようとする。性的2元論は根強いものがある。しかし、半陰陽者や両性具有者は、大人になってから、「(自分は)組み込まれた性の人間とは全く縁が無いなあ」と感じることしきりである。だからといって、もう片方の性にも違和感を抱いていることが多い。
 半陰陽者にとって、性というものは永遠に疑問符であると言っても過言ではない。男らしさとか女らしさという感覚は、性の彼岸の呪文である。それに与するのは自己放棄にも等しい投企であり、一種の擬制でもあり、負へのアンガージュマン(自己拘束)といった寂しさが付いて回る。性に拘束されるのは堪らなく非人間的なことだと、半陰陽者は結論的に考えている。
 両性具有者は、意志によりどちらかに自己拘束しても、性は直接的なものにはなり得ない。あくまでも仮象の総体であり、非直接的なものである。自分の性意識はどちらでもないとしか言い様が無い。それは、どちらでもあるからなのだが。
 どちらでもあり、又、どちらでもない性を掴むのは、本人でさえ難しい。“性的な他人の反応は自分に対応するものではない”と感じられるのである。これは、自分の性には対象が見当たらないことが多いためだ。
 両性具有者は、どちらの性でもないと見られるが、疑問符付きの、どちらかの性に属することから、諸種の精神的葛藤を覚えることになる。そこで、それぞれの性の意識を、まずは身に纏うのを止めようとか、意識的な振る舞いも止めようかと思うのが、両性具有者の最初の自己肯定へ向けての仕種であり、性的自己確証へ向かっての意志である。


 性意識の獲得へ向かって、両性具有者の試行錯誤はごく幼いうちから始まる。どちらかの性に組み込まれると、それについて疑問符を投げ掛ける意識が常に働くからである。そこで、性を離れて自分を見つめたいということになる。性に対する反省的意識が働くのである。それは重いトラウマでもある。
両性具有者にとって、“どちらかの性にならなければならない”という考え方は、受け容れ難いものである。ワタシとしては、 “性同一性障害”などという病名はお笑い種なのである。自分のナチュラルな性が障害や病気だなどと見なされることには、納得がいかない。
 その結果、一生懸命考えるということになるのだが、行き着く先があるわけではない。しかし、考える道筋を見つけることこそ大事なのである。所詮、人間とは、生きている限り考える動物なのである。そして、各人の差異性を認知することが自由の故郷であるかのごとく、非一般性を包摂して自分を支えるようになる。
 自分は普通の人と性的に違うということが、その人の個性の最たるものだと思えば、少しは心が軽くなるというものだ。それはしかし、範囲の無い大宇宙に向けて、自己探査ロケットを打ち上げるに等しい苦労である。性宇宙に何が見えるか、飛んでみなければ分からない。一般性との対比という、膨大な思考の領域に目を向けなければ為し得ない。その過程を通して、自分の苦悩はより具体的に見えてくるであろう。それを咀嚼できるよう、更に頑張らなければならない。


 人と付き合う時にどんな心的状態になるか、良く味わうことも必要だ。友情だの恋だのが半陰陽者にとってどういうものか、深く考えるのも必要だ。ほとんど納得できないままに終わるであろうが。 自分は失敗作だと強く感じるのが青春だ。青春時代には、異性というものが自分の性にとってどういうものなのか、雲を掴むごときであった。普通の人の真似をしたいが、うまく相手を引き留めておくことさえ困難だ。
 神仏を呪いたくなったり、神による救済を望んだりと、心の中をカタルーシス(心の浄化)を目差す自己が駆け巡る。その上、付き合っているうちに、普通の人にとって自分は重いお荷物なのだと気付かされるのは、何ともやるせない。そこで世間にそっぽを向けば、ニヒリストにしてデカダンだと思われる。変質者扱いされる。それを避けるために、何食わぬ顔をして、お気の毒にと思って貰うのはとても寂しい。それは正に、マニエリスム的精神(生きた心地がしない)のカタストローフ(崩壊)である。



 半陰陽者は、傍目にはまず、オカマかオナベか性倒錯者かといった風に見られる。実際、半陰陽者は、意識の上ではそれらの要素を経験している。どちらかの性として振る舞おうとすれば、必然的にそうなってしまう。しかし、そうではないのだ。もっと重い肉体的・精神的違いを持っているのであるから。結局、どちらの性に扮しても、そっちに扮しているのではないかと思われるほど、どちらにも見えるような曖昧な外観の性をしていることが多い。と言っても、どちらも似合わないことが多いのだが。
 どちらも似合わないというのは、この男女世界では、自他共に極めて憂鬱なる外観である。しかしそれが両性具有者の本性である以上、男か女に扮するのは自己への裏切り、或いは自己欺瞞である。それで、どちらとも違うのだということを何とか表現したいと、本心では望んでいる。同時に、どちらにも見せられるということを、数少ない快楽的事実だと思っている。
 どちらにも扮することができるということと、どちらも似合わないという二律背反する現象が、両性具有者の現身なのだ。それは、男女という二つの性の2元性社会では、インターセックスという身体が呼び寄せる必然的現象だ。性の中間という、両極に向かって存在する性座には行き着けない存在とも言える。そこで屯しては困るんだと言われそうな性なのだ。
 一方では、両方の性座から追い打ちを喰らったようなものだ。一般的性社会の住人にとってみれば、どっちつかずの性の人は仲間に入れたくないと、内心思っていることだろう。
 そのような現実の中で、半陰陽者は、生ける時空を孤独に模索しなければならない。肉体も孤独なら、社会性も孤独なのだ。そこに身に着く精神も孤独なのは言うまでもない。どちらの性の外観を纏っても性的に同一化されない、孤独な性である。 外見的にはどっちつかずの姿で人前に現れることしかできない、それが両性具有者にとって性的縁起の生得的特徴であり、ストイックなほどに求道的であり続ける由縁である。ちょっと風変わりでとっつき難いが、霊魂そのものは純粋なのである。
 孤独に喘ぐペルソナを、普通の人が見て取ることができるかどうか、大いに怪しい。本人でさえ判断し難いのであるから、普通の人が見定め難いということを、無能力だというつもりはないが。誰にとっても、無能力というのは、非人間的であるというのは確かなことだ。この世の中は、厄介である。



未完の墓
 このように、男女2元的性社会では、半陰陽者は名実共に半端者という汚名を被されてしまう。そういう反人間的意識をくすためには性別の表記を止めるしかないが、それは大多数の人間にとって、現時点では同意しかねることかも知れない。多数者に合わせるか、少数者に合わせるか、その利害の対立は今のところ折り合いが付きそうもない。両性具有道を語る立場からは、戸籍の性別に、性別を書きたくない人の欄を設けたいものである。
2005年12月17日   両性具有蘊蓄






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