末日性徒ベルボー 第一章 性と人格の乖離 -1- 両性具有は何処へ


 それにしても、ワタシは最近大分おかしくなっていることに薄々気付いている。無意識のうちに美しく着飾って出かけてしまう、昼間っから。オトコとオンナの間を微妙に揺れ動く意識が、ワタシの内部でくすぶっていて、表面を麗人にしたりオンナにしたり目まぐるしく入れ替わるのだ。それがワタシの性的特別あつらえの肉の本性だ。よく巷では、両性具有者は分裂症に罹ると言われているが、そんなことはないと、本人が言っている。しかし、ワタシの精神が普通でないということは、痛い程解っている。
 それとも単なる離人症だろうか。ワタシのオトコの内実が消え失せてしまったのだろうか。心は確かにオトコではないが、何故に美しく女装しても男の視線に無頓着なのか、不明だ。数年前睾丸が癌と診断され、摘出されて以来、残った男性の象徴は突起だけだ。その上、子宮と卵巣が胎内にあり、ワギナも着いている。
 ペニスはいわばクリペニスとでもいうもので、そこから僅かながら精液を分泌することが出来たが、今はそれもない。尿道口は女の位置に開口しているので、立って小用も足せない。それで男装して旅行に行く時は、お漏らしパンティーを穿いて行く始末だ。それでもオトコとしての性的刺激は結構感じることが出来る。と言っても、女にリビドーが向くわけでもない。女装していても、男にリビドーが向かない。リビドーというものの失調を来している。こと、リビドーという点では、性を喪失している。
 だからといって、オナニーをしないわけではない。おっぱい、クリペニス、ワギナと、性感覚は男よりたくさんあり、それらの快感はとても強烈だ。それらを刺激されたくてうずうずしている。それらを欲する時は、意識は女で、男に押し倒されて犯される図を思い浮かべる。
 今日も大学に女の衣裳で出かけたが、いつも話をする湯川講師は、冗談めかして、「今日は随分ダンディーですね!」と言ってくれる。そう言われて悪い気がしないで、いい気分になるのが現状だ。両性具有者が女装している時にそう言われるのは、極めて官能的に嬉しいことなのだ。こういう心が普通の男女に解るかどうか、はなはだ疑問だ。
 [ダンディズム]、ワタシがいまだかつて感じたことのない意識が、何故にワタシを受動的な満足感に浸らせるのか、全く理由が解らないのだ。その根拠が何なのかも不明だ。「随分フェミニンですね」と、男のスタイルでいる時に言われるのと同等な快感なのだ。
 これが両性具有者の性意識とでも言うべき現実なのかも知れない。[マドモワゼル ベルボー]というのがワタシの綽名だ。ベルボーというのは、フランス語で、「ベル フィーユ」[美しい娘]とか言うように、女性名詞を形容する言葉と、「イレ ボー」[彼は美男子だ]という場合に使う、男性名詞を形容する美だ。その合成語である。それは多分にベルともボーとも判断がつかないためにくっつけられた形容方である。美に関係深い呼び名なので不満はない。美男美女を一つの躰に体現しているようで、自分の心が美的官能の渦に溶け込みそうだ。
 それは、両性具有という肉体の現実界への顕れ方が解らずに、どちらかの性に落ち着けと、再々口うるさく説教した知り合いの性的呪縛から逃れ無視し、喜びに目眩が添えられるのに似て、純私的官能の満足を両性に取り込んで得られる、苦悩を超克して昂まる自己の世界の発情なのだということに気付いていた。それは純粋な意味でカタルーシスの時である。そんなわけで、ワタシ、岩谷水流は、世俗の人間美とは異次元の人間美の世界に係累されている。それは普通の男女には解らない、禁欲的発情を促す、自己錬磨なのだということも理解している。
 どうして世間は、両性具有に生まれた人を、男女どちらかの片方の性に組み込もうとするのだろうか? と水流は不審に思って生きてきた。そういう世界では、自分の性は、非現実という時空を現実世界の中に構築する以外に、対象化出来ない存在なのだということを実感していた。それはとりも直さず、この世の現実の中に、非現実界の衣を纏い、それを膨らまさなければ窒息してしまうのを防ぐ手段でもある。外面の性と意識上の性は一致することはないのである。
 つまり、現在に到る男女の性的偶像性を暗黙の裡に認め、それに準じるように社会が要求するために生じるギャップである。両性具有者は、世俗的には人間の影のような存在であり、その心を理解し得る人物は滅多にいない。それは、影の心を読み解くのが困難なためでもある。「影よ、吾が心を大地に映せ」と祈りたい気分なのだ。或いは、「光よ、吾が心を透視して、他人の心に突き刺され」と言いたいのだ。  しかし世人は、ワタシを見ても、又話を聞いても、戯言としか感じないのだ。理解さえ出来ないというのは、現実を理解出来ないというに等しい。何故そういう、現実に接しても解らないということが起こるのか、全くの謎だ。その代表が、教員組合の委員長をしている、愚鈍なる橋桁一雄だ。何もしなくても自ずと、男も女も同等になって、男女の諍いも無くなるとか戯言を並べているが、家でいかに自分の父性性が家族に与える影響力が強いかということを自慢している、全くのトンカツだ。ワタシの性と顕現の仕方を蔑んでいる。
 彼奴にとっては、最も凡庸なることが大事なことなのだ。それが彼奴の安泰の条件なのだ。なる程彼奴には学問がない。それを正当化する言動だ。凡庸なることが要求されているのがこの世の現実だと思いたがっている。鋭い見識は、危険思想だとでも思っているのだろう。
 大学教授には、独立して突出した、互いに激しく対立する見解を持っている人物が多いため、互いの妥協点でまとめる人物が必要なのだ。それが橋桁を委員長にした、蒙昧なるまとめ役という動機なのだ。自分達の収められない理論の対立を、まとめなくてはならないための、ゴミ箱として扱われているのだ。彼はそれを得意に思っている厚顔無恥な奴だ。
 「俺の意見はこうだ、良く覚えておけ!」と、それぞれの人に言われると、「はあそうですか、覚えておきます」と、頭を下げるのが彼奴の処世術の手練手管だ。それでいて、そういう物の考え方を講義するわけでもない。それが学問とはまるで縁がないことぐらいは分かっているらしい。
 「彼は無学の勧めを磨いているのでしょう、この実学の府で。そして大学当局に要求するのではなく、学問に要求しているのでしょう、もっと静かになれと。実際講義で学生に言ったそうですよ、[君達は、莫迦というヴァージンを永久に守るであろう]と。彼の授業を取ればそうなるかも知れませんな。それが彼の現実認識なのですよ。そして彼の友人に語ったそうですよ、こう。[野放図な莫迦に大学を卒業させることが大事なんですよ]と。それでは万年講師でも仕方ありませんな。
 学問の府であればこそ珍重される無学ですな。無学という名の動物園の檻の中に入れられている珍獣でしょう。飼育係りも大変ですなあ。女性教員の評判は極めて悪いんですよ、何しろ女を人間とは見なしていないのですから当然ですな。封建主義的人間観ですな。
 彼の頭は鮑の殻のように固いようですな。それでいて弱者に対しては、冷酷無比な態度で接するんですよ。彼は教員の立場を守るような振りをしつつ、当局にとって邪魔な教員を排除することに躊躇いを感じないんですからね。それは彼自身を守るためなんですよ。ああいう奴こそリストラすべきですな。単なるゴミ箱が生ゴミ処理する能力はありませんからな。彼は、組合の委員長という立場を離れたら、ゴミのように始末されるでしょうから、必死なんですよ。彼は組合の委員長という錦を着ていますが、心は蛇ですな。
 それにあまりにも労働についての見解に鋭い違いを持っているのが、大学の教員の実態ですから、一つの組合で済ませるというのも所詮無理な話ですよ。統一見解を作ることすら出来ないんですから、当局に足並みを揃えて要求を出すのは到底無理ですな。そこでどうにもならん奴を組合の長に据えるということになるんですよ。」
 と、湯川講師が語気を強めて水流に語った。
 「あまりに汚れたゴミ箱は厭なものですわね。」
 と、水流は応えた。そして思った、何故にこの社会は、人間を人間扱いしないシステムが根付いているのだろうかと。それを自由競争だと思っている輩が多いのも何故だろうかと。この社会の自由競争とは、競争ではなく闘争であるという現実。それに組合の委員長までが屈服しているという現実。何と心寂しい社会の実態であることかと思わないではいられない。それが経済の合理性だというのなら、その経済学に、人間性は隷属しているのだ。人間が主人公ではないということなのだ。
 経済的合理性の方が人間よりも大切なのだ。人間はなる程、合理性を追求するのは本性だが、人間性の合理性はそれではどこかに隠され、押し込められて忘れられてしまっているということだ。そういう社会では、他人は蹴落とすべき競争相手であり、心を許し合えない間柄で結ばれている。そういう基本的な社会の有り様にマルクスやウェーバーは気付いていた。しかし後述するように、彼らにも共通した盲点があることも確かなのである。 さて、水流の人間性に戻ろう。両性具有の人間性はどうあるべきかという問題意識を彫り上げよう。これは水流の生涯に渡る問題であるから、真剣に。マドモワゼル ベルボーと呼ばれるにはそれなりの理由がある。それはオトコの要素もあるために当然の呼び名だが、マドモワゼルと呼ばれることに若干の不満と不安を覚えるのだ。
 ワタシの肉体的男の部分や、女の部分に落ち着けないためだ。そのため、性的安定感が身に染まない。しょっちゅうその両者が顔を出したり引っ込んだりする。そういうワタシは他人の、男なのか女なのかと訝しい眼差しで見られることには、羞恥心を覚えた時期もあったが、今では他人の性詮議の眼差しは気にならなくなっている。
 却って、そういう視線を投げかけられることを、自分の現実として享受することは当然なのだという風に、いつの間にか官能が許可を降ろしているのだが、それが、非現実世界への逃避とも、その構築とも感じられるのが、理屈から見て安定ではないというパラドックスにも目覚めている。
 つまり、官能と理性が絡み合いながらも密接ではないのだ。この現実世界の中に非現実世界を以て登場するということに、理性は、無念さと虚無の理屈を、生ける骸として体内に宿していることに、無垢なる非情を感じてしまうのだ。
 そのような、非現実空間を身に引き寄せ、現実世界に現れるということは、世間という空間を疎外するという観を免れないが、そうしなければ生きて行けないという、別次元の煩悶に陥るのだ。社会と自分の間に薄弱なバリアーを張り巡らせるのだが、その中に籠もっているのは、残念ながら息苦しさを禁じ得ない。思考も、窮屈な時空に閉塞しがちになってしまう。そのバリアーを放逐してしまいたいのだが、その時、自分が自由を感じられるかといえば、それも難しいのだ。
 骸、つまり、オトコとオンナの間を右往左往する性意識が、しょっちゅう入れ替わるために、両方の性が、生きていると同時に死んでもいるという、葛藤の産物のことだ。その骸を葬るには、自分の両性性を認め、慈しみの念を以て抱き寄せることによってなのだろう。
 そう蘇生させることにより、ワタシは性世界をあるがままに受け止めることが出来ることだろう。そして自由に行動出来るようになるだろう。それを今、実現しかけている。それを実現するには、性的自由を手に入れなければならない。こう割り切ることが出来るのは、両性具有者の方が男と女の片方でしかない通常人より早いと言える。
 ワタシの性の存立基盤がオトコからオンナに変わったのは、大学に入ってからだが、それは倒錯というような甘い誘惑に魅せられたからではなく、肉体の自然な発育と、それに伴う精神の時空の逆転現象に因っている。その逆転とは、オトコでもオンナでもありながら、リビドーがどちらにも向かなかったという、極めて異常な肉体の生成過程が、私の性を一旦葬らせ、違う時空に生まれ変わり、仮象の性である[ワタシ]を生みだし、その変幻する表面的性を地獄から拾い上げ、内実が大きく変わった結果の、今在る姿ということなのだ。
 そういうワタシには、恋愛だの肉体愛だのといった世俗的人間が無意識的に抱いている性愛の欲求はない。性的現象の欠落を体現しているベルボーなのである。性的なのは、マスクと衣裳だけなのである。そう、外面は確かに美しい骸であり、その死に装束として女装する人物なのだ。それは当然、自分の性と外面は乖離したものという意識に裏打ちされた衣裳だということである。
 そういう外見に納得しているわけでもないのだ。それは虚無の心性の飾り物に過ぎないことは痛い程解っている。つまり衣裳は、ワタシの心を露出しているのではなく、虚無を祀っているのだ。或いは隠蔽しているのだ、普通の人間ではない生き物の美だということを。
 ワタシが、どんなに華やかなランジェリーを身に着けても、又、それらをちらつかせる可愛い衣裳で包んでも、心の芯からの虚しさがそれらの衣類を内部から引き裂くという現実を、誰が知っていよう。自分だけでたくさんだ。それがワタシの心性の表皮だということも、誰も理解出来ない。美しい躰を引き立てる華やかな衣類を纏えば纏う程、ワタシの心は虚しく荒んで行くというのが、本当のワタシの美学なのだ。荒れ果てる美学というものがあるということに気付いたお陰で、ワタシは生きていられるのだ。
 華やかな外見が孕む虚無の美学と自己破壊の衝動を抱いている、オンナの外見をした人間の形姿を纏う、何らかの、人間性では計れない意識なのだ。それがワタシの現世での生を疼かせる。生の疼きこそワタシの官能なのだ。それを強烈な快楽にするのが、女性用の衣裳を内面から引きちぎることなのだ。外見を相手にSMごっこをしているわけでもないのだが。内面がオトコとオンナの両者だということの衝動的欲求なのだ。
 ワタシにとって、女物の華やかな衣裳が、自己破壊の衝動に突き動かされながらも、優雅な自意識を育む、地獄で授けられた宝物なのだ。地獄の福音に包まれて、ワタシの精神は、落ち着く先のない、思念世界へ転げ落ちたのだ。





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1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴あとがき





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