末日性徒ベルボー 第三章 両性具有者の意識 -2- 外なる仮面と素顔仮面


 今まで述べてきたように、水流には、裡なる性として、オトコとオンナが肉体に根付いて生長してきたが、それぞれの性に自己があるという関係ではなく、自己は一つである。自己は逆に、自分のオトコとオンナを眼差す存在であり、性に拘束されずに性を見つめるものである。それはミズルが、性を超越しているというのではなく、内部でオトコとオンナが相剋しあうように、意識野を確保しようと張り合っているが、そうすることにより、より深い性意識へと自己を高めてきたのだ。
 こういう、自然な肉体に生起した肉を備えた男女の共存という躰の自己からみると、ユングの言うアニマとアニムスという、ある一人の人間の、女性的側面とか男性的側面という言い方では、不十分である。女体的側面と男体的側面の両者を統一した肉体に生起する性の諸側面と言い換えねばならない。
 つまり、女性的側面を重視してオンナになろうとか、男性的側面に領されてオトコになろうとかいう、世俗人間の性は、一般的了見による、倒錯という観念が着いて回る程、二元的なのである。
 二元的なものが、裏返った二元的な関係になるだけなのが、T・S、つまりトランス・セクシャル(性転換)の実態である。それに対し、両性具有者がオトコかオンナになるというのは、一元的に両性であるものから、片方を切り捨てるということになる。
 それも意識上のことなのだが、それは、二元的な性による選択ではなく、一元的なものを二つに分けて演出するものである。片方の捨象ということである。しょっちゅうどちらかを捨象するので、躯としての性を抱えているように感じるのだ。
 だからといって、両性具有者に、アニマとかアニムスといった性意識が亡いというわけではない。それもあるのだが、その抽象的意識よりも強固な、直接的な性である男と女が共存しているのである。このような躰に生まれたミズルにとって、奇妙なことと思われるかも知れないが、オトコになるのも、オンナになるのも、どちらかを切り捨てるという形での、第二の性へのアンガージュマンであるという現実がある。
 それはしかし、どちらかを切り捨てると言っても、隠し持っているということを秘めているのである。つまり、オトコになったりオンナになったりするが、別人になれるわけではない。
 又、この第二の性は、ボーヴォワールの言う第二の性とはかなり異質であり、直接的なものである両方の性のうちのどちらかに自己拘束するのであるから直接性を超越するものではない。スーパーな性に自己投企するのではない。その逆に平凡な性への自己投企、いや自己投棄とでも形容すべき行為なのだ。それは必然的欺瞞性を身に引きつけるものでもある。
 それは一般人の、性倒錯という観念とは別種の、起源を異にする自己欺瞞である。つまり、普通の人は自分の生得の性の反対には成りきり難いので倒錯と見られるのに対し、両性具有者は、両性的な肉体から片方に化けるのが困難であるが、にも拘わらず、他人の眼差しが、どちらかの性として見分けようとする指向性を乗せて突き刺さってくるため、自分の性的マスクが、自分の投企を恥じらわせるという点で、耐え難いいたたまれなさを感じさせるために起こる、存在そのものの悲哀を嘗めさせるという、自己欺瞞なのである。 絶対多数を占める性的一般人の目には、普段、アイツは両性具有者だという概念が欠落している。アイツは倒錯者だという観念は持っているが。その倒錯の、見かけか内実のうちを探ろうという無意識的視線を投げかけるのだが、それが一般人の性の本質であるかのようだ。どちらかの性として存在するのが人間の本質であるという、性的偶像崇拝を、無意識のうちに抱いているのが一般人の特徴のようだ。
 どちらの性を装っても、倒錯と見えてしまうことが多いというのは、憂鬱そのものである。しかしうまくメイクすれば、どちらにも化けられるというのは、そういう一般性の壁をぶち破ることが出来るという点で、逸楽でもある。しかし、深い意識にとっては、化けなければならないのは自己欺瞞である。何故、どちらかに化けるかと言えば、そうすれば一般性の中に溶け込めるというためなのだが、それは自分の性的本質に矛盾するという事実を強烈に意識化させてしまう。
 本人は、自分は両性具有であるという意識を強固に持っている。どちらかに化けると、そういう矛盾を意識に強固に突きつけられるのである。そのため、自分は両性具有であることを他人に見せたいという意識を常に持っている。それは一般性の中で孤立する辛さを同時に引き受けることになる。内面的に孤立して行くので、自分が孤化するという内容を磨いてゆくことになる。そこに、両性具有者の意匠を育くみ、花開かせる要素が生まれることになる。
 普段は、自分の素顔を表出することの難しさに苛まれるため、いろいろに自分の性意識に即して面体を整える努力をする。しかし、両性具有を顕わすのは難しい。というのも、オトコとオンナという二つの仮面を被ることは出来るが、それを脱いでも素顔は性を表出しないという奇妙な現実を抱えているからだ。それは、性を免れない人類の中で、素顔の喪失とも言える意識に悶えることになる。
 仮面を脱いだら素顔を喪失してしまうという、自分にとって自己喪失を招きかねないため、なかなか仮面を外せないということになる。素顔を喪失するとは、顔に代表されるペルソナが亡いということの隠喩である。こう表現すると、何か分裂症者の描写のようで、本人にとっても気味が悪い。性的混迷の現象の一齣である。
 自分を代表する顔が亡いというのが、両性具有者が悩む最大の黙阿弥である。表面も表情もあるにも拘わらず、顔が亡いと実感するという、何とも奇怪でミゼラブルな人間なのである。そのくせ、素顔にどんなマスクを着けるか、日夜、苦心惨憺しているのである、自分の顔を求める求道者のように。
 自分のマスクは、透明な、シースルーなヴェールのようなものであるとか、心を投影するスクリーンであるといった観念を、自己は持っている。それは表皮ではなく、変幻自在する性意識の顕現の場であり、言うなれば、ヒエロファニー(聖性の顕現)の場なのである。そういう意味で、両性具有者の顔は、常軌から外れるのである。
 それは一方では、自分の顔は現実的な性であると見て貰っては困るということでもある。性的でない眼差しの世界こそ、両性具有者が闊歩する時空なのだということが、ここに露わになる。かといって、両性具有者が、聖性の体現者であるというわけではない。唯、自分の素顔というものを考える時、常識的眼差しでは見抜けない、本人の聖なるものへの飛翔という、憧憬の顕現の場になるという点に於いてのみ、聖なる場に成りうるのである。
 素顔の喪失ということの背理のように、かくのごとき、人間が裡に秘めている聖性の顕現の場という概念が巣くうことになる。それを足台に両性具有者は、自己のペルソナに映る表面に磨きをかけるのである。
 そう、ミズルは独り静かに自分のマスクを鏡に映して、瞑想に耽る日々を送っていた。現実の、手に取ることの出来る具体的鏡には、透明なスクリーンにしか見えない自分の顔に、心の鏡に映る自己の面差しを反映させているのだ。鏡を覗く度、ミズルはそういう感覚になる自分の神経組織を素描した。
 鏡を覗く度、そこに映っている仮面を透かして、自分の面差しを想い浮かべるのだが、その前にヴェールのように掛かっている仮面を喪失しても、自分の本当の顔がある筈だという、強い確信をミズルは抱いていた。仮面が心にとっては、透けたヴェールのようなものだからといって、透明人間ではない躰をしているのだから、何か本当のものが映っている筈なのだ。その何かが、謎に満ちたペルソナの正体だろうと、ミズルは思った。
 普通でない正体を見ることは、自分を一般性という範疇から自ら脱落させる原動力になりはしないかという怖れを感じさせたが、自分の本性を知らないではいられないのが、人間の人間たる所以であろうと思いつつ、ミズルは引きつけられるように、鏡と対峙する訓練をしていた。
 仮面は虚像というわけではないのだが、本当の面体でもなく、うっすらと自己の実像をちらつかせ、追い求めさせる対象物のように思えた。その意味では仮面は、自己のペルソナの影と表現してもいいだろう。であるから、仮面は決して、自己のペルソナの実像を虚飾するものではないのだ。しかし、実像ではなく、実像を柔らかく包んでいる闇ないし影なのだ。
 皮肉なことに、性で充満しているかのように錯覚されがちな両性具有者の性は、本人にさえ掴み難いものであり、その意味で、性世界は闇のようなものなのである。その闇にうずくまる己が性と実像は、その内部に生きている、本人の眼光をもってしか照らし出されないものなのである。であるから、心の鏡を必死で覗くということになる。それには幾多の修行が必要なのである。
 闇ないし影の中に潜むことを好む両性具有者が、その域内を探索するようになるのは当然の成り行きなのだが、何も見なかった、或いは何者にも見られなかったというだけでは、何の収穫も得られないのである。何かを見つめ、又、見られるという関係の中で、朧気に自己の闇が白んでくるのである。そして徐々に、自己の輪郭が浮かび上がってくる。
 それをしっかり見つめ、素描することによって、見つめる自己の眼差しの根元を発掘することになる。素描することと見ることが相俟って、自分というものを深く洞察するようになる。更に、自分の眼差しの古里を認識するに到る思考をもたらす基底にもなる。
 このように、見る、見られる、思考するということは、分かちがたい絆で結ばれている人間の基本的能力であり、その自分に備わっている能力を磨くことなしには、両性具有者は自分を見つめる台座を構築出来ないのだ。であるから、自分が闇夜に沈んでいると実感するということは、自己発見の端緒とも言えることなのである。闇の中では、人間は、自己省察し易いとも言える、心の中を覗く訓練をする格好の状態かも知れない。
 人は見られたり、見たりすれば何らかの情緒的、或いは精神的な反応を起こすものであるから、人目を憚ってはいけない。ミズルの場合は、特に性的な眼差しの交感に因って、自分の性意識を抽出してきたようだ。
 そうして修行を重ねてきたミズルは、自分の仮面というものが、自己にとっての対象物として映り、それは、仮面は自己の外にあるという認識に達し、それは自己にとっての暗闇の中にあるものだと思われた、理性の光でのみその仮面が何を隠し、又、何を現しているのかを理解するに到ったのだ。  そこに到ってようやっと、仮面は自己にとって単なる外面であり、内実に補填されている以前のものであるという、過去の思念を更新するものになった。自分が仮面を被っているので、素顔が見えないという状態も乗り越え、自己を発見したのだ、まだ未熟だが。自己の存在に気付いたが、心の鏡に映る相貌は、まだ外面にはなっていない。
 そのような状態での面は、自己の素顔ではない、形式だけのものであり、心の面ではないので、心の素顔はまだ見られない状態にある。こういう関係で、素顔と仮面は別々に自分の顔を覆っているのだ。
 仮面を外しても素顔が現れるわけではないので、仮面を外した面は、[素顔仮面]とでも形容すべきものになる。その素顔仮面を見ても、どのような人間なのか、見る他人よりか、本人の方がはっきりとは自覚出来ないのである。他人は、こういう面かと思うだけで、内面までは解らないが、深くは追求しない。しかし、ある種の感覚、つまりアイツは仮面を被っていると単に了解する。
 そのため、自分の内面は、他人よりも本人の方が深く思い澱むものとして、自分の眼前に据えられるのは当然である。つまり内面こそ、自分にとっての対象物として据えられることになる。その本人にも不可視の内面は、まさに悩みの宝庫である。自分を理解しようと努力する際に、どこから視線を射し込めばいいのかなかなか解らないために。
 これはしかし、自己喪失の一歩手前の状態であるが、自己は心の鏡を持っていて、それに問いかけているので、主体は正常であり、完全には、自身について盲目というわけではない。
 まさに、内的に葛藤する仮面とでも言うべき存在を経験するのである。このような困難な自己発掘を、両性具有者は押し進めるのである。このような葛藤を経て、自己というものによって、自分のペルソナが捉えられ、独特なアイデンティティーを得ることになるのだが、その過程はさしずめ、[両性具有者の心の現象学]とでも名付けるべきものだろう。 このような考察を、ミズルは毎日日記に記していった。そうすると自ずと、心が落ち着き、謎がその要点を開示するかのように、整理すべき契機を現してくるようだった。その契機に沿って、思考の道筋を付けるという方法で問題点を素描し、あるべき姿を求めるという、青春期特有の指向性の下、思考を押し進めていった。そうすることは、ミズルにとってはこの上ない快楽でもあった。
 その日記こそ、ミズルにとっての聖性の顕現の場だった。純真無垢に自己を求めるべく葛藤する姿が純化され、日記はますます不思議な世界を徘徊する、求道者といった観を呈していて、ミズル自身、その手で引きずり出してきた思念の航跡を振り返ることは、実に楽しいことだった。
 そして両性具有というものが純化され、性を軸に個性が際だってゆくように感じられ、自分の世界観も確立されてゆき、独特な内実が花咲くかのようで、心も和む喜びを覚えた。それで、毎日執拗に日記に想念を書き連ねていた。
 そんなわけでミズルは、クラブにも入らず、友人と大学の構内で談笑する以外、無駄なことに時間を割こうとはしなかった。自己解剖の欲求の方が、一般的遊びをしようかという欲望より遙かに強かった。
 それに何よりもミズルは、普通の男女のようには、恋愛とかセックスに対して積極的にはなれなかったという、個人的事情があったためもある。自分の肉体をそういうことに供する興味も無かったし、知られたくないという意識も強かったためでもある。そんなわけで、話を交わすだけで満足出来る、おっとりした仲間以外とは付き合いもなかった。例の、霊界人とスカート穿爵や、ナルシッサとだけ付き合っていた。
 彼らも、自分のマスクやペルソナについて悩んでいたので、それらについてお互いの考えを交換することは、極めて有益だった。その意味では、彼らは友達に恵まれたと言える。この辛い青春を生き抜く心の支えに、彼らは巡り合い、励ましあったのである。彼らは、話し合うに連れ、自分の心が内に密度が濃くなってゆくのを実感し、友情はより強固なものになっていった。





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