末日性徒ベルボー 第二章 自己と性世界の関係 -3- 自己と仙人


 「この社会並びに共同体に存在する自分の個は、いわゆる[社会人]と呼ばれている。その全世界の一部である社会こそ人間性の住処だと思っている人は極めて多い。その社会こそ、人間を類的存在と化すものであると、単細胞に捉えている人も同じく多い。しかしそれは、一見、心の通わぬ人々の集まりのようにも思っている人が多い。であって、それでも類的存在だと考えている人は、人間の心を理解していない輩だろう。そういう人に類的存在であると自負されては迷惑だ。
 人類が類的であることを否定するわけではないのだが、単に社会に棲息する社会内存在を、類的と捉えるわけにはいかないと私は考えている。そう、人類と社会内類を混同するのは間違いだと思える。というのも、人類は社会外でも存在しているからである。自己というものが、個とは別に存在しているからである。しかし、自己が人類でないということではないのだが、その自己の社会は今のところ無い。というのも、自己はどの社会にも属さないのが本質だからである。
 そういう自己を念頭に入れずに、人間は類的存在であると考えるのは、無知の専横も甚だしいと言わざるを得ない。自己は、社会内での個の存在を、社会と非社会との接点に身を置いて、中に入ったり出たりして、自分を見つめ、制御しているのだ。社会で活動している自分を見つめ、考え、行動の指針を自分の躰に伝えるのだ。自己は、自分を手に取るかのように見つめ、それに人間性を吹き込み、社会に戻す作用をする。その意味で、自己は個の心を常に浄化するように働いていると言える。
 前にも述べたように、自己は身体と共存しつつ、それから離れているとも言える、不思議な存在なのである。いや、身体が産み落としたと言うべきだろう。そのため身体に常に寄り添っていると同時に、躰から離れてもいるのだ。いや、常に身体を対象化しているのだ。その身体から離れつつも、身体にまとわりついているものとして存在するが、別人に寄生することはない。そういうものとしての自己の世界をちょっと覗いてみよう。
 自分が産み落としたものが自分を眼差し、対象化し、考え、それを自分に投げ返すという関係項で繋がっている。自分が産み落としたものが、自分の親になり、思惟となって、自分を子供として教育するという、親と子の逆転の構図を作り上げるのだ。自分が産みだしたものが自分を導くのだ。人は、自分の親を産み落とすという逆説を経験するということだ。こういう考え方は、昔流に言えばグノーシス的二元論であると捉えられるかも知れないが、グノーシスの考え方では、神と人間という二元論であったが、私が考えているのは、個と自己の関係なのである。
 それが自己というものの出生の秘密である。しかし勿論、自分の身体が死ねば、自己も一緒に葬られる。勿論、こういう関係は自己の思考が産み落としたものなのだが、肉体と自己という関係を考えると、そういうパラドックスが真実のものとなるのだ。
 ではいったい、自己が思考を磨く世界とはどういうものなのだろうか? という疑問が沸き起こる。自己が思惟し展開することは、すぐに個に映っているが、その思惟をもたらす自己を、自分は見られないという関係にある。自己は自分を手に取って眺めることが出来るが、自分は自己を見つめることは出来ないということである。
 と言っても、考えること全てが自己によるものだというわけでは勿論ない。感覚的なものや、官能的なものや、喜びとか恐怖など、肉体の神経の反応は、咄嗟に自分のものとして捉えられるものである。それらは思考の産物ではなく、肉体に生起する現象である。そして追憶として後まで残るものである。
 その記憶装置は自己にはなく、自分の個体の脳にある。自己はそれらを掘り起こすことが出来る。つまり思考というものは、個と自己の共同作業に負っているのだ。そして、自己が考えた事柄も、個体の記憶装置に遺るという関係にある。要するに、思考は頭脳の記憶装置にインプットされるということである。そして、新たな思考を生み出す基になる。
 随時書き込み、呼び出すことが出来るという意味で、コンピューターのランダムアクセスメモリー[R A M]に相当するのである。
 人間は、体内にあるコンピューターを駆使する能力を持つ、自己というものを産出するのだと言える。このように、現代の社会学は、コンピューターや大脳生理学などについての知識も研究しなければならないため、クロスオーヴァーな学問の交流が必須のものとなるのである。要するに、人文科学だけでは研究は進歩しないのである。それは例えば、私が散々述べているところの、自己の発生という問題を取り上げても言えることであり、これは社会学や人文科学だけでは解明されないのである。
 この問題は、大脳生理学の発展に多くを負っているのである。デカルト以来唱えられてきた、この個と自己の関係というテーマは、未だに生理学的に解明されていないのだが、事実起こっている問題なのである。それを解明するキーになる思考を、人文科学の立場から提起してゆこうというのが、私が研究している分野なのである。ちょっと余分なことを聞いたと思わずに、諸君も考えてみたまえ。
 この、具体的なものにいずれなるであろう[自己]というものの時空は、個を超越しているわけではなく、密接な関係にあるのだが、個に考えた内容を具体化するよう働きかけるという意味で、個から離れてもいるのである。その時空にある思考世界での存在は、考えようによっては、仙人的存在様式と捉えられないこともない。
 自己は何も食べないが、個に食べる手段を伝達する。そうして自己は活力を得て保つ。このように、自己というものは天空神から智慧を授けられるのではなく、個から派生し、個に蓄積されている知の記憶を呼び出し、それを研磨し研鑽して、新たな要素を個の記憶装置である脳にインプットするのである。つまり自己は、脳に蓄積されている知をインターネットで検索し、思考を練る才能を専らに持っているのである。
 この、専ら思考を司る存在として、自己は仙人的なのである。社会に身を置くわけではないという点でも、自己と仙人は類似性を持っている。社会に在りながら、社会から離れてもいるという、自己の特異な存在時空の探索を、デカルトはしなかったが、現代人はそれを為し得る状況に差しかかっている。デカルトは思考する自己を発見したが、その自己の存在時空の探索をするのは、吾々の緊急なる研究課題である。
 自己は個を手に取って検分することも出来るし、社会をも対象化することが出来るのである。それは、人間が類的存在だからである。マルクスやウェーバーは、人間が類的存在であることにはっきり気付いていたが、それで、社会と個人を対象化する位置に立っていたが、その位置に立っているのが自己であることに気付いていなかった。それは、ヘーゲル的弁証法を叩き台にして、唯物弁証法という考え方を絶対化したため、個や社会を手に取って考察する半ば物質でない存在である自己が存在するということを、深く考えずに否定して、戯言として相手にせず、看過してしまったためである。
 人間の物体性に焦点を当てたせいだが、それは有機的身体という、マルクスの基本的人間観並びに自然観に基づくものであり、脳髄が物質で出来ていることは明らかだが、その物体から物体を見つめる自己が派生するという考えを受け入れなかった。それが唯物共産主義の基本的人間観並びに自然観であり、そう考えない人々をまともな人間とは見なさなかった。それらの人々は一方的に独裁されるべき人間であると措定されてしまった。マルクス主義がそういう、思想の専横に傾いたのは確かなことである。
 思想の専横が、権力を握ること、それがプロレタリア独裁ということの現実だった。それを人民の民主主義と詐称したのはまことに遺憾なことである。その強引さは、到底人間主義とは相容れないものである。一般大衆は独裁されるに相応しい無能なる物体であると判断されてしまった。一般大衆を救う筈だった理念が、いつの間にか、圧制に呻くのが当然の身分の物体という観念に変貌してしまったのである。
 人民に人間性は無いと判断されてしまったのである。マルクスは人民の一人ではなくなってしまったのだ。民主政治を司る筈だった人民を、虫けらのごとく踏みにじったのである。そこには、マルクスの人間不信の心が色濃く反映されている。極論すれば、人間なのは自分だけだという思い上がりと、そう考えさせるに到った社会を呪うと同時に、その社会を構成している人民をも呪い、それらに歯向かわねばならない自分の孤独な運命をも呪うという、ニヒリスティックな信条を窺い知ることが出来る。そこには、思考の甘さと情念の歪みがある。
 それは後期マルクスの、権力奪取指向に顕著に現れている精神状態である。若きマルクスの情熱的人間愛と、人間解放への意思は次第に影を潜め、自分の絶対化と人民の支配へと変貌してしまった。自己という物を認めない故に、自分が考えていることを内省することをしなかったためかも知れない。自己を認めない以上、自己省察をするわけも無いのだが。そういう論理が独我論に終わることは目に見えていることである。
 このように、自己というものの存在を無視することは、人間性の喪失を招くことになるのである。あれだけ緻密な、社会と人間についての分析をしておきながら、そういう結論に終わったのは残念な限りだが、冷徹にみて当然なのである。そういう轍を踏まないためにも、自己を磨かなければならない。個と自己の分離ということは、二元論というわけではない。それは、今までの私の論述で明らかであろうと思うが、人間に起こる自然現象なのである。
 であるから人間は、その自己の世界を鍛え、豊かな人間性を育むべきなのである。そのためにも、仙人的博愛精神と、孤独と愛を仲良く発達させるべきなのである。仙人というイメージを追いかけ、聖なる思考を身に着けるべきである。一旦、社会内存在としての個を離れ、そして社会を考察し、より豊かな人間性を獲得するにはどう考えたらいいのか、又、社会はどうあるべきかを考えるなら、現在ある個と社会がいかに歪んでいるか解るであろう。
 その歪んだ個と社会を肯定的に捉えて、それに順応し、出世することばかり考える輩が多いが、そういう人や社会はいずれ崩れ去るであろう。というのも、そういう進行の行き着く終着駅は腐敗だからである。腐敗を許してはならない。それは個と社会を破滅させるからである。それに甘んじることは、精神の屈服であり、理性の放棄であり、自ら、人間でなくなることを促進するゴミになることである。
 社会主義も間違えだったが、資本主義も人間を家畜と化する社会なのである。そういう社会は、人間性を売買することに慣れ親しんでいるが故に、人間の尊厳をまず壊滅させることを権力者が画策し、人間性を骨抜きにし、自己を持たないのが当たり前、つまり奴隷になれという思考で満足させ、社会の進歩を疎外する要素に自らをアンガージュマン(自己拘束すること)させるのである。そういう社会は、人間の精神の虚構化を正当化し、そうでない醒めている人間を危険視するのである。
 現今の社会では、腐敗せる人物がのうのうとえばり返って、それに抵抗する人物を奴隷にしているのである。そういう、精神を堕落させる社会を打破するには、まず正しい認識を持たなければならないことは言うまでもない。
 そのためにも、人間性の何たるかを見極める、自己というものを仙人的聖性の域まで高めて戴きたい。学問は決して妥協しないものであるが、社会もそうあって欲しいと願わずにはいられない。現状追認は悪への加担の第一歩であることを忘れないで戴きたい。諸君がそういう足跡を遺さないことを祈る次第である。決して腐敗せる享楽に溺れないよう心して戴きたい。
 常に社会に埋まらない、自己の存在に心を向け、反省と内省を怠らないで、穢れないよう注意して戴きたい。ウェーバーが言うところの、エートス(持続する理念的情念)を育むことを期待している。そうしてこそ人間も社会も進歩するのである。では、諸君の健闘を祈って、この講座を締め括ることにする。」
 そう、年が明けた一月の最後の授業で、石滝教授は訓戒を垂れた。ミズルは、自分の問題意識を補足してくれる講座を受講出来たことを幸運に思った。カノジョには、個と自己の分離という、この老教授の説く内容に、以前から朧気に気付いていたからということもある。唯、カノジョは、性についての考察の一環として考えていたのだが。
 自己にとって、自分の性が距離を持ったものであると、はっきり認識していたためだ。つまり、自分の性を持つ肉体が、自己にとって対象物として、考察すべきオブジェであると感じていたのだ。そういうメタフィジックなロジックに、人文科学的側面からアタッチメントされる気がして、有意義だった。カノジョの思考が、今までより幅広く、しかも深い洞察力を授けられたと思えたからだ。
 今まで、自分の性意識にだけ包まれていたロジックが、社会学を初めとする諸人文科学的視野と合流出来たと思われ、大分進歩したと実感出来た。ついでに、ロジックの構築の仕方に目覚めたようでもあった。ミズルが大学に入って、一年目で唯一強いインパクトを受けた講座だった。
 性については、医学部の図書館に行って、いろいろな本を漁っていた。精神分析学の基本は性にあるというのも、カノジョにとっては新発見で、啓蒙される思いがした。対人関係も、性により大きく異なると解説されているが、両性具有者の対人関係については記されていないのが残念だった。恐らく、男と女では、普段考えることも違うのだろう。両性具有者もその両方と違うに違いないと思われる。
 ミズルは、普通の男女の異性関係に満足出来ないでいる。それは自身の両性具有という肉体が、男ではないし、完全な女でもないので、一般的性の公式では、自分の心に性的感触すら理解出来ないこともある。そして、自分の性的感覚が、他人に理解されないというっことが、しばしば起こるのである。それは、すれ違うということではなく、感覚の中身が違うのである。例えば、ミズルは男にも女にもリビドーが向かないが、普通の男女はカノジョにリビドーが向くのである。
 それはミズルが、普通の男女のどちらも普段眼中に無いということからも窺えることである。無視しているのではなく、意識に入ってこないのである。そういうことは普通の男女には理解出来ないことで、性的に眺めてしまうのだが、それが当たり前のことなのである、一般人には。
 ミズルは、霊界人とセックスしたが、それは儀式上のことであり、望んで男に抱かれたわけではないし、彼に色欲を感じたからでもない。肉体の挨拶として行ったのだ。





N E X T
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