末日性徒ベルボー 第二章 自己と性世界の関係 -5- 資本と人間性とマルクスの総括


 「去年の一般教養課程では、マルクスやウェーバーのごく初歩的クリティックと自己の問題を取り上げ、エコロジーへの軽い布石を敷いたが、今年は、もっと掘り下げてロジックを磨こうと思う。まず、マルクス経済学の主要ポイントを人間学的に軽く捉えておこう。 最近、人間の生活と資本の論理がはっきりと反発する時代になってきているが、その根本的原因をまず示そうと思う。機械化はどんどん進み、それまで多数の人間が行ってきたことを、僅かな数の機械でこなせる職が増え、それに伴い、余剰人員が出てくるのを、リストラと称してクビにすることが進行している。つまり、資本の論理にとって、人間は不要な要素であるという本質が明らかになってきている。
 人間生活と資本の冷酷な論理の背反性に、最近の人々は極めて鈍感になっているが、それが厭でも明らかになることだろう。その時、人々は、旧来のマルクス主義に復古する部分と、新しい生活スタイルを模索するグループとが出てくるだろうが、いずれにせよ、経済主義というものが破綻の原因であることに気付くに違いない。だからと言って、精神主義を持ち出す愚か者でもない。
 労働というものが、本来人間が企画したものであるのに、それを実行する人間には、人間性の自由な発露を許さず、機械のように働くことを要求するものだということを、普通の人間は強制され、受け入れ、それを当然というより、崇高な労働理念として受容している。それを称して、人間が成すべき仕事であるという観念に染まっている。
 経済活動が全てに優先する人間性であると考える人にとっては、その観念は美徳であると思われている。
 機械に成り下がった人間はそれに文句を言えない。人間性を喪失してしまった機械人間達は、中古屋に再就職の運命を預ける以外にない。そして半分粗大ゴミのような自分の身の上を独り慰めながら、朴念仁になるより他に生きる手だてはない。
 こうして、自ら人間性を放棄していることにも気付かない人々に、政府が冷たい態度を取ることににも唯耐える以外にないことは自明のことである。政府関係者すら、資本家が垂れ流す排泄物に等しき余剰金を食らうだけの機械なのである。要するに、政治家は資本家の傀儡だということである。そこには、何の確固たる信条による基づくものはないのである。
 そして、いつ目が醒めるか分からないそのような機械人間は、少ない程、資本にとっては効率的なのは言うまでもない。本来、労働者は、資本にとってはアブラムシ的存在なのであるから。それらに賃金を払わないで済むならそれに越したことはないのである。労働者の数を減らせるのなら、資本家は躊躇せず、彼らを排除する、あたかも掃除をするかのように。
 このように労働者は、資本家と同じ経済観念を共有することは出来ないということは明白なことである。そういう対立が先鋭化すると、国内の政情不安となる。
 このように、労働者と資本家の生態もまるで違うのである。生きている世界も違うのである。資本家が生きている世界は金の増殖、いや養殖のための、人民及び政治家の非人間化という時空であり、労働者の世界は、就職口を求め、自分の人間性を放棄するという、労働力としてだけに人間性を自己拘束する世界なのである。
 その区別さえつかない労働者が、今、おんぼろ機械として中古屋に払い下げの運命に遭っているのである。魂まで売ったが、悪魔は優遇してくれない。常に自分をいつでも不要な機械にしようとして接してくる。いくら胡麻を擦ってもそういう意識を変えることはない。労働者の魂では、雇い主=資本家の心を動かすことは出来ないのである。資本の論理では、労働者の基本的能力、及びそれを捧げるという魂は、単なる機械の属性・性質と受け取られるだけなのである。
 ここに資本というものの、反人間性が浮き彫りになる。その資本の論理に忠実な者が反人間的なのは悲劇的である。それを社会の原理にする以上、政治は悪政とならざるを得ない。それを防ぐのは、政治家の社会認識であり、世論の力以外にない。
 ということは、資本というものが反人間的なものである以上、それを労働者が管理したところで、悪の根元を封印出来るものではない。ある程度、その悪の威力の暴走を抑えることが出来る程度である。それでは、人間にとって根本的解決にはならないのである。
 それは、マルクス主義を受け継いだと称する経済圏の社会の崩壊を見ても明らかである。いわゆるソヴィエトロシアを盟主とする、東欧の社会主義圏は、人民が政府を創ったと称していたが、実体は、一部の共産主義者が政権の座に就き、プロレタリア独裁を実行し、資本の全てを共産党が掌握したのであるから、国家完全独占資本主義とも、統制資本主義とも言える形態だった。生産の目的及び形態を国家が計画し、それを人民にやらせるという経済体制であり、民主主義国家よりも徹底した人間管理を行っていたのである。独裁される人間が人間扱いされないのは当たり前である。
 ここに、東欧圏の悲劇の元凶があったと見るべきである。人民を人間扱いしないという資本の原理を、国家が握っただけであり、人間性を骨抜きにし、奴隷のごとく扱ったという、資本にとっては全く嬉しい限りの暴挙を為し続けてきたのである。それが共産主義社会への一時的過渡期の政策であると、マルクスは考えていたが、七十数年に渡って、変わることはなく、人民の自由が進歩するどころか、後退したのである。挙げ句の果てに共産党すら瓦解して果てるという状況に立ち到ったのである。
 そういう現実を見て吾々は、経済主義に疑問を投げ掛けざるを得ない。マルクスは経済主義から脱却しようと思っていたが、その方法を思いつくことはなかったのである。独裁国家が、民主主義を標榜する資本主義国家よりも更に強固なる資本主義国家であり、人民民主主義を潜称していたが、監獄国家とでも形容すべき形態であり、人民に、生きること=与えられた労働に従事すること、というたがを嵌め続けてきたのは衆知の事実である。奴隷たる人民に愛国心を要求するという、人間性を底無しに乏しめることまで実行したのである。
 このように、独裁というものが民主主義より遙かに劣る悪政であることは言うまでもないことであり、それと、独占的に反人間的である資本の管理権を併せ持つことにより、東欧圏は悪魔の苑と化したのは事実である。悪と悪の王朝結婚であったとさえ言えるのである。それがマルクス主義を名乗る社会主義圏の辿った現実である。独裁などというものは、一時なりとも許してはならないということをも証明したと言えよう。絶対権力を握った共産党の最高権力者でさえ、資本の下僕という身分から解放されなかったのである。
 マルクスの価値は、彼が資本主義を完成したのだという皮肉な事実にあるのであり、彼の政治的結論である、プロレタリア独裁は、全くのデタラメであり、言語道断なのである。その両者共吾々は受け継ぐことは出来ない。つまり、マルクス主義は人間性を解放することは絶対無いと結論するものである。それは論理的必然である。
 吾々がマルクスを評価すべき点は、資本主義経済の悪弊を暴いた点と、そういう社会からの脱却を目指したという意志にあるのみである。しかし彼が、資本主義経済を歴史的必然の所産であるという論理を導いた彼の唯物史観を、正常なる理論と見ることは出来ない。それは彼の体系立った妄想であり、世界史のパラノイア的捏造でもあるという、許し難い暴挙なのだ。
 そこには人間マルクスの、人間不信の影を色濃く読み取ることが出来る。世界を正しく見ているのは自分だけであり、その自分が社会から締め出されているという現実が、彼に、世界を導けるのは自分しかいない、それならば自分が独裁者にならなければならない、その自分の思想を人格化した存在である、プロレタリアートにそれを実行する夢を託すことにしたのであると、そう捉えるのが正当なところだろう。
 いかに明晰な頭脳の持ち主であったマルクスでも、資本主義に取って代わる経済システムを描くところまで行かなかった。その前に寿命が尽きてしまった。マルクスの後継者もそれを実現することは出来なかった。マルクスが言った、生産手段の国営化と、プロレタリア独裁といった、マルクスの最大の錯誤のみ引き継いだ結果、人民は人間扱いされない存在に乏しめられてしまった。
 それは資本主義国家に於ける初期の、人民虐待と大差ないまでに徹底的だったという、悲惨な結果に終わったのである。それは現代人の目から見れば、必然的な推移である。
 独裁する側から見れば、人民は、いつ反乱を起こすかと危惧すべき、敵とも思しき群衆である。敵を自分の体制内で自ら創り出す支配構造なのである。敵である人民に自由を与えるわけもないことは当前である。要するに国民は敵であるから、それらを捕らえているのであるから、社会は必然的に監獄であり、そこで権力の鉄鎖で縛り付けて労働に従事させていたのである。
 人民の民主化運動を反革命として戦車で蹂躙し、尚も捕らえた人々を即決裁判で銃殺刑に処したことは、チェコのプラハの春のソ連軍の侵攻による圧殺や、中国の天安門事件でも明らかな通りである。敵である自国の国民に政治的発言権は無いのである。
 そもそもの出発点が誤りであるのだから、東欧圏の崩壊は、歴史的必然というよりは、偽善の敗北とでも形容すべきであり、人間的必然であったと見るべきである。人間性亡き権力構造だけ打ち立てて、それに人間が耐えられなくなって自壊したのである。権力のヒエラルキーこそ愛である、それが彼らの人間観であった。
 社会主義が崩壊した後の東欧圏が、この後、単なる資本主義へ後退するのか、それとも新しい社会形態への脱皮、或いは変身をするのか、今のところ不明である。当分、不透明な状態が続くことだろう。ロシア人が理想を追求するというのであれば、資本主義にも社会主義にも戻って欲しくないという思いは、吾々だけが抱いているものではないだろう。 吾々の主要なる関心は、資本主義に代表される経済主義の基本的悪から、いかにしたら人間は解放され、かつ、豊かな生活が確保されるかという点にある。人間性のあるエコロジーを可能にする社会形態の模索ということである。資本制生産社会の上を行くシステムを構想しなければならないのである。ここに吾々は、マルクスのクリティックを終え、吾々独自の社会観と人間の関係を考察する途に就こうと思う。
 経済のシステムから社会の在り方を決めるという、従来の発想は破棄されなければならない。それに代わり、[自己の世界の現象化]という、人間の基本的欲求を満たすことを実現させるためには、社会システム及び経済はどうあるべきか、と、問いを立てることから出発しなければならない。去年散々言ったところの、個と自己、社会と自己という観点に於ける、自己というものの世界を打ち立てる方途の模索ということである。
 つまり、今までのような、経済が人間の主人である限り、人間は金の自己増殖のための付随物となってしまい、人間の本質的欲求を追求することは出来ないのである。であるから、人間性の発露を主人公にし、それに仕えるための経済学という風に、立場は逆転されなければならないことは明白である。ここに吾々が提起する経済主義からの脱却ということの、実質的な概念と、中身の出発点がある。
 これは、経済は二の次というような類の逆転ではなく、生活が成り立つのは当たり前という状態でなければならないという、環境設定のために経済があるという意味合いに於いてなのである。要するに、自己の世界を開発してゆくのが生活になるのであり、その環境を整備するために経済が充填されるという社会の構造にしなければならないのである。であるから、自己の世界の産出イコール金の産出という関係ではなく、文化の造形に繋がるものにしなければならない。
 文化が創り出されるということのうちに、経済が成り立つという風にしなければならないのであり、従来の、金の余剰を文化にちょっぴり回すというような関係とは、根本的に異なるのである。つまり、経済のために最低限の文化が必要であるという、従来の経済本位の考え方ではなく、文化の創造が必然的に経済を成り立たせるという、人間本位の考え方を基底にするものなのである。
 産出行為というものの内実が変わるということを、まず念頭に入れなければならない。今までは、お金を捻出するために、他人の仕事に従事し、自己の世界を封鎖されていたために、個人にとって文明は縁の無いものに等しき存在であった。それがこれからは、他人のための仕事をするのではなく、自分の世界に浸るための行為に時間を費やすのである。 それは遊ぶということではない。何度も言うように、自己の世界の現象化、すなわち、個性ある文化の産出に従事するということなのである。お金を捻出するのではなく、文化を産出するのである。
 お金を生み出すために行動するのではなく、お金は使うものであるという立場に各個人が立っていなければならない。こういう状態でこそ、真の意味で、人間の平等という概念が成り立つのである。金の力で他人の生活を律するという、資本主義様式の生活に人々をくくりつける、従来の政治形態も当然破棄されなければならない。
 今までのように、政治というものが、経済のために人間を消費するという、非人間化されたものではなく、人間の生活のために経済を充填するという、人間性を保つために機能するものに変わらなければならない。それは言うまでもなく、資本主義社会を遙かに超える社会でしか実現し得ない生活様式である。君達未来の卵の能力にかかっているということを、よく弁えて頂きたい。
 以上が、吾々が目指すエコロジーの出発点の総論である。資本主義、及びマルクス主義という双子と袂を分かつ必要があるということである。」
 四月から、石滝教授のエコロジーの授業がこう始まった。





N E X T
・末日性徒ベルボー・
1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴あとがき





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni