末日性徒ベルボー  あとがき


 この作品は、ワタシにしては珍しく、人間の経済学的側面に触れているが、ワタシはマルクス主義者というわけではない。マルクスの理論を知らないわけでもない。しかし、現今の経済学を認めるわけでもない。社会主義社会の経済学と、資本主義国の経済学を、同根の、枝分かれした双子の理論と見なしているのである。
 そして、その両者の悪しきところを捉え、よりよい方向を目差すにはどうすべきか、考えるための初歩的考察をしただけであるが、方向性を見出しているとは言えない。方向性となると、社会的政治的方向性を持った人物像を描かなければならないが、ワタシはそういう方面に極めて不向きであるし、活動には興味が無い。


 ワタシの主要なる関心事は、両性具有の人間が、どうやって生きて行くのか、或いは生きているのかの分析であり、ワタシの著述の主要目的もそこにある。両性具有者の性意識と、普通の性との軋轢などである。ワタシは、その地平から出るつもりはない。両性具有者のリベレイションを掲げるのでもない。
 両性具有者の、社会での存立基盤に目を向けるとき、人間的立場がどうなるのかということが気になるので、人間が商品として現れるこの世の経済的実態について、分析しようと思って、初歩的考察をしたまでである。勿論、その入り口辺りを垣間見ただけであり、深く立ち入ったわけではない。まだ、両性具有者と経済学の接点も見出してはいないが、接点を見出したいと望んでいる。よりよい生活を送るためにである。
 それは、両性具有者だけが、よりよい生活をするためでは更々無いし、不可能なことであるし、社会全体の構造に左右されるものであるので、その中で、どういう立場に追いやられるのか、気がかりなためである。諸々の何々主義などとは無縁であるが、又、イデオロギーにも傾きたくないが、人間である以上、自己が存在しないわけでもないので、その意識をどう生活に活かすかを考えたいと思って、経済学を引っぱり出したというところである、学校教育の古めかしい引き出しから。
 それはまだ、どのような意識かというところまでも達していない。肉体が、あまりにも個人的色彩に固定されてしまうためである。そのくびきからこそ、自由になりたいと願っているのだが、その立場も未だ不明瞭である。言えることは、両性具有者を寂しい個人主義に固定するのはどうしてかということなのだが、それをおいおい探ってみたいと思っているが、本書はそこまで行かない、材料集めのレシピ部分である。
 なにも、難しい方向へ舵を取ろうというのでもなく、反対の、簡単に説明しうる方向へ話をもってゆきたいが、両性具有者の意識を簡単に片づけるのは無理なようだと、いつも悩まされる。それは、エコロジー(生態学)を解明するのと同じく、とても難しいのだが、それ故に、エコロジーの触りの部分も考えてみたが、何よりも重たいのは、両性具有者の性意識なのだ。それを軽くしようと、重みに喘いでいるところだ。
 そういうわけで、いろいろな方面からアタッチメントを施してみようと、そうすれば、いろいろな面で、両性具有者の姿と内面が浮かび上がってくるのではないかと、期待して打ち始めたのが本書である。そのために、若き両性具有者を主人公にして、その人物が行き当たる諸々の障壁を見出しつつ、現世的問題点を探ってみようと、手法を編みだそうと計画しているうちの一冊である。







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