両性具有文学
・井野博美・

    宇宙の花粉  1


 何故秋になり、夜更けになると、世界は深くなるような気持ちになるのかしらと、ふとナンシーは夜道を歩いていて不思議に思った。夜空を見上げると、月は三日月だったけど、星々は柔らかな放射状の輪を広げたり狭めたりしていて、そのリズムがナンシーの心を柔らかく揉みほぐすような感じがして、気持ち良かった。
 星々は輪舞しているんだわと思った。その宇宙の未知のリズムが躰に伝わって来るような気がして、思わず両手を躰の両横に添えて身震いした。その仕草が今日の天空の舞いに合っていなかったような気がして思った。宇宙の運行には調和と不協和音があるのだろうという想念を。自分は不協和音かしらと思った。それはウンポコウンポコよと思って、歩く速度を落とした。一分音符のフェルマータ終わりと独りごとを言って、再び普通の歩く速度に戻した。
 それ程宇宙は身近なものであり、人体に影響を与えているんだわと思えた。そう思えるだけ、今夜の星々の伸縮が心地良かった。人間が伸縮するのは、心臓の鼓動とか、呼吸によるものだけかしらと思っていたのが、星々のリズムが他の躰の部分にも、揉んだりほぐしたりする作用をしているんだわと実感した初めての夜だった。
 それ程今夜のナンシーの神経や官能は、鋭敏に澄んでいた。それは今夜の大気が偶然特別鮮烈なためかしらと思った。こういう夜は数年に一度あるかないかだろうと思え、今夜の官能の記憶を大事にすべく、ずうっと外にいようと決心した。まだ初秋で、そう寒くはないし。
 それでナンシーは、散歩を続けることにした。歩くと、体温が上がるせいか、夜気は若干涼しいという程度だったので、歩いて汗ばむこともなく、ノースリーヴから出ている腕も、寒くはなく、快適だった。風も吹いてない。静寂この上ない地球が、今夜程自分の躰にフィットしていることはないように思った。自分は夜の落とし子であることは間違いないことだしとも考えた。
 そう思って歩いて行くと、尚夜の深みに嵌まって行くことにおののくような、心地よくもスリリングな躰の旋律を、再び感じ取ることが出来た。
 家々が並ぶブロックを幾つか越えると、後は畑や林の中にポツリポツリと農家が散在する地点へとナンシーは辿り着いた。小さな町と、さして広くはない農耕用の田畑で出来ている集落なのだ。町の外れの突端に竹林があり、その中に昔ながらの、藁葺き屋根の農家風の家が建っている。
 建物の外観は古いが、中には、畑の方には音が出るが、それ以外の方角には音が洩れないよう、防音装置が施されていて、真夜中でもピアノを弾いている音が、畑の方には聞こえてくる。その建物の内部を見たことはないけど、どんな人が住んでいるのかは知っている。なかなかの美人だと評判の姉妹と母親の三人が住んでいるのだが、妹を昼間見た者はいないと、専らの風評だ。
 かと言って、夜分、彼女がどこに出かけるのかを知っている人もいない。どこで見かけるかも偶然で、定まった場所に出かけるわけでもないらしい。しかし、見かけたことのある人の話によると、ゾクゾクするような美貌の持ち主だとのことで、この町一番の美人だと、専らの噂話である。それで、皆、一度でもいいから見たがっているとのことだった。 姉の方は妹より背は低く、端正な顔に落ち着いた感じを与える、知的な相貌ではあるが、いつも醒めた表情で人を見つめる、二十代後半の年齢で、恋人が数人いるとの噂だった。名の通った音楽大学を出て、楽団に所属して働いているとのことだった。
 妹の方は、同じ音大の大学院に通っているとのことだが、昼間見かけた人はいないので、ことの真偽は謎だと言われている。見た人の話によると、細身の躰で、手足が長く、ウェストがごく細くくびれ、胸の出っ張りは中庸だが、顔は細面で額が高く、髪の毛は背中まで垂れている。
 肌は色白で、それを引き立てるかのように、青白色のファウンデーションを塗り、薄い唇にはローズマダーのリップスティックが塗られ、青いアイシャドウが施されていると、皆、同じことを言っている。眉毛はほぼ真っ直ぐに長いそうだ。唇は薄く切れ長で、目鼻立ちの細長さを印象付けてマッチしているとのことだ。その目つきが、独特な魅力ある光彩を放っていると評判だ。しかし、何分夜の光でしか見た人はいないので、確かなことは闇に包まれている。
 今夜も姉妹のどちらかがピアノを弾いているらしく、畑の方まで歩いていたナンシーの耳に聞こえてくる。ドビッシーの亜麻色の髪の乙女という曲だ。その、ピアノの音が一音ずつ今夜の星々が放射状に伸縮を重ねる感覚にマッチしていて、その家の辺りを宇宙の神秘の静けさが取り囲んでいるように感じられた。それだけ、今夜のそのピアノの曲が、宇宙の律動の調和に相和しているようだった。
 そんな曲を今夜選んで弾いている人は、ある意味で宇宙人と呼ぶに相応しいのではないかと思われた。そういうイメージを与えるのは、竹林も一役買っているような気がナンシーにはしていた。というのも、竹林というものが、空気の流通が特に良く、従って音も空中を透過し易いように感じられるからだ。
 次に曲が「水に映る月の光」に変わり、ナンシーは更にはっきりと、宇宙のリズムと景観が、この竹林の中の家に相応しく適合しているのを感じた。宇宙的感触にぴったりフィットしている、珍しい地上の限られた空間が、ここにあるという感慨を深めさせたのである。その意味では、宇宙の律動を地球人に実感させるという点に於いて、尊敬の念を抱かせる空間でもあった。
 その女だけの一家がここにひっそりと暮らしている。姉妹については、若いということもあって、町の人々の興味を引いているが、母親については、ほとんど話題になっていなかった。その家は農家というわけではなく、畑仕事をしているわけでもなく、昼御飯や夕飯の買い物に出かけるのは、ほとんどその母親なのだが、近所付き合いもしないし、暇な時は竹林の草むしりや、窓辺に咲かせる草花の手入れをしていることしか知られていなかった。
 それに大都会の郊外のこと、人々の出入りや入れ替わりも激しく、特別その家族のことを子細に調べようという酔狂な人物もいなかった。しかし、母親は、駅前のマーケット街でいつも買い物をするので、その辺では顔馴染みの女性だった。自宅周辺の人にはほとんど知られていないが、駅前の商店街では知られた顔だった。
 いつも低姿勢で、内向的でおっとりしているしいつも俯き加減にしているので、商店街の人達には到って評判が良かった。決して順番を争うこともなく、店の人の勧める物の中からいい品物を選んで行くことでも、センスのいい人と思われている。が、決して無駄話をしないのが玉に瑕と評価されていた。どういう家の主婦なのかも、商店街の人は知ってはいなかった。着ている物も決して高価な衣装ではないが、品の良さを保っている。
 しかし、その婦人の家族については、知っているのは近所の人だけだった。その姉妹は駅前のマーケットで買い物をするのは滅多にないためと、いつもこの町とは違う町に出かけているためである。この町にいるのはほとんど夜だけなので、知り合いにもなれないというのが現状だった。姉の方は、時折、ナンシーが店番をしている時にCD盤を買いに来るので、顔は知っていたが、住所や名前は知らなかったので、その家の姉だとは知らないでいた。
 ナンシーは一度だけ真夜中に、その家の妹らしき人物が、オレンジ色のTシャツとブルマー姿で、散歩から帰って来て、竹林に続く門を開けて中に入って行くところを見かけたことがあった。夜行性の女なのだろうと思った。身の丈およそ百七十八センチと長身で、細身なので、実際には百八十センチ以上に見える。スタイルの良さではファッションモデルが十分勤まりそうである。
 なかなかの美人だという風評も本当だと思えた。インテリ美人とでも言うのか、さりげない装身具や僅かな、要所だけ押さえたお化粧しかしていないが、それだけで十分自分の美を醸し出していた。ナンシーには羨ましい肉体美の持ち主だった。ナンシーの身長は僅か百六十二センチなのだから、羨ましがるのも無理はない。
 星々の茫洋たる伸縮が、竹林を僅かに揺らせ、闇夜に浮かび上がらせ、清々しい感じに包まれている内部に、その娘が入って行く姿をナンシーは神秘的に連想した。しかし今夜は、この家の人物の出入りはなかった。あまりに天体の様子とピアノ曲が合い通じて響き合っていたもので、つい立ち止まってその相関関係にうっとりと包まれて、動けなくなってしまったかのようだった。
 夜も更け、ピアノの音も一段と鮮やかに聞こえるようになるに連れ、弾き手の情熱も高まってくるのが良く解るようだった。それだけ弾き手の腕前が上手であるということでもあった。弾いているのは姉だろうか、それとも妹の方だろうかと、少々気になった。それにしても、竹林一色の植物の庭の中の家から、これだけの優雅な音楽を外に発散するとは、この中に住んでいる人は何て風雅な人々かしらと、ナンシーは感心して思った。
 その家の門の表札には、数年前に亡くなった父親の姓名が記されている。猪俣悟とある。女だけしか住んでいないと知れるのを、恐れてのことだろうとナンシーは思った。しかし母娘の名前を知っている人もいないということだ。近所付き合いをしないからだと近所の人達は言っている。娘さん達もかなりの美形なので、何とか話をしてみたいと、ナンシーは思った。
 そういう感慨を持って、立ち止まって聞いていたが、徐々に空が青味を帯びて、もうじき白むのだろうと思える頃、ピアノの音が止み、部屋の灯りも消えたので、ナンシーは夜空を見上げた。星々の伸縮と律動が薄らいでぼやけだしているように感じられた。聖なる宇宙夜に一幕降りたという感じがして、ナンシーは今夜の聖なる感覚を大事にしようと、それが薄れないうちに、陽が昇る前に帰路に就いた。
 今夜ピアノを弾いていたのが姉だか妹だかは解らないけど、全体的に線は細いが、弾力があるという感じで、星空の律動に似合っていたわと思った。容貌も違うそうだから、弾き方も違うだろうと想像されるが、どちらかは解らなかった。商店街に差し掛かると、終夜営業のコンビニに入り、梅のチュウハイを買って、飲んでから帰り、ベッドに潜り込んだ。その頃には、部屋のカーテンの隙間から、空が僅かに白んでいるのが解る程の時間になっていた。まだお彼岸前なので、陽が昇るのも早い。
 今年の天候は、夏の暑さが秋の中頃まで続くだろうと、気象庁の長期予報ではなされていた。まだ若いナンシーには、夏の暑さに負けないだけの体力を備えていたので、夏が終わることに感傷的になっていた。去り行く夏にオードを捧げたい気分だった。夏は恋の季節でもあり、ナンシーはその謎の姉妹に恋してしまっているようだった。いつかその姉妹に昼間会えることを期待していた。




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