両性具有文学
・井野博美・

    宇宙の花粉  8


 四日後、ナンシーは生理日だったが、生理が来なかった。遅れたのかしらとその日は思った。しかし十日経っても来なかった。そのまま一月経ってしまった。季節は十一月中旬の晩秋になっていた。静之にその話をした。静之は、
 「そうお、おかしいわね。」
 とだけ答え、俯いてしまった。その日は火曜日で、明日はお店の定休日だ。ナンシーは、明日産婦人科に行ってみようかなと思っていた。生理が二ヶ月連続して来ないのだから心配になる。しかし、その夜、波乃から電話で、明日のお昼、内で昼食を用意するので、いらしてという誘いだった。ナンシーは行きますと返辞した。
 「今日はオムツカレーよ。」
 と、姉の波乃は嬉しそうだった。今日は応接室で、ナンシーの店からローンで買い入れたステレオ装置を鳴らし、波乃のバンドがイージーリスニングの曲を演奏したという曲を掛けていた。カレーを煮る匂いがしていた。
 いざ、波乃がお盆にオムツを敷いて、その上にカレーライスを皿に盛って持って来て、皆の前に並べると、ナンシーは俄に吐き気に襲われ、オウェッとしてしまった。しかし、吐きはしなかった。
 「どうなさったの、ナンシー、具合が悪いの? 貴女、ひょっとして妊娠したんじゃないの? 誰か、恋人がいるの、妊娠するような関係の?」
 ナンシーは首を横に振り、
 「あたし、TGのFTMだもの、男の恋人なんていないわ。恋人は女の人よ、静之さんみたいな!」 (TG:トランスジェンダー:性的役割転換。FTM:フィーメイル to メイル:女から男へ)
 と答えた。そして、みんなといっしょにスプーンで食事を始めた。
 「貴女、生理日に生理が二ヶ月なかったんですってね、それは妊娠したのよ、きっと、あたしの妹は実はFTMなんだよ、躰は。ジェンダーは女だけどね。不思議に思うかも知れないけどね、一ヶ月ちょっと前、三人で新宿のカラオケボックス行ったろう、一緒に。あの時静之が貴女に種を仕込んでしまったんだな、きっと。
 妊娠後、三週間から気持ち悪くなりだして、二ヶ月でつわりが始まり、三ヶ月でつわりは終わるのよ。貴女は今、気持ちが悪くなる段階だな。
 どうする、降ろさないでよ、お願いだから。あたしが養育費出すからさ、しっかり育てようよ、三人で。静之の戸籍上の性別は男ということになっているんだよ、実は。でも女だけどね、心も体型も。妹がパパってことだけど、こればっかりはなっちまったことだしね。頼むよ。」
 姉は懇願するようにナンシーに何度も頭を下げた。静之は吾を失った人のように呆然としていた。
 「何かミスリアスな話だけど、静之さんはあたしの膣の中に射精出来たわけだ、平たく言うと。おめでとう、静之さん、コングラチュウレイションだね! あたしは未婚の母にはなりたくないから、頼みますよ、父親はあたしだと認知してよ、生まれたら。そうすれば静之さんは本当にFTMということになるわけだ。そこまでやって欲しいわ、産む方としては。
 でも本当はあの時あたし、静之さんが女だとばかり思っていたから乗り気になって、レズビアンのように乳くりあいたくてのっかってしまったのよ、それがこうなるとは、思ってもいなかったことよ。あたしは狙われていたのかしら?」
 と、つい、ナンシーは本心をさらけ出してしまった。静之は蒼白な顔になり、両手で顔を覆うと、ウウッと呻くような泣き声を出して立ち上がって、台所に行ってしまった。波乃がハラハラしてナンシーと静之を見やっていた。
 「狙ったのはあたしなのよ、ナンシーさん。貴女にはFTMの素質があると見抜いて。静之には僅かながら射精する能力のあるクリペニスが股間にあるもので、それを活かしてやりたいとあたしが勝手に思い込んで、させてしまったのよ。責任はあたしにあるの。ご免なさい、ナンシーさん。
 あの子はあれ以来茫然自失、眼まで生きているのか死んでいるのか疑わしい始末。何を考えているのかも話してくれないで、沈み込むばかり。頼みの綱は貴女だけ。あの子と付き合ってあげて欲しいの。さもないとあの子、気が狂ってしまいそうで、心配でならないの。あの子の心を開いて欲しいの、子供が生まれる前に。
 貴女との間で生起した事態であることは間違いないのですから、それにあたしが媒介として立ち回りましたが、貴女達が付き合うことで、二人の間のわだかまりは無くなると思うのです。あの子は世間から脱落したいと欲している程にナイーヴで、脆弱な対人意識に苛まれているけど、それを現実世界に何とか係累してやりたい、それには心の支えが必要だ、それは愛人と子供だと、あたしが考えてのことでした。
 それが間違えだとは思えないのですが、妹の落ち込みようが思いの外激しくて、何かあたしには解らない悩みがあるのではないかと思えて来て、あたしも不安なのです。あたしの予想では、こうなれば、静之は明るく強くなると思ったのですが、静之は現実退行の気配を深めるばかり。多分あの子は、自分が貴女に子供を孕ませてしまったことが、現実であって欲しくないのでしょう、心が純な女ですから。
 でも、あの子は子供を生めない躰。産ませる可能性をごく僅か持っているとの、医師の見立てでしたので、それに賭けてみようと思ったのは、あたしでした。それが静之の心に適ったことだったかどうかは定かでないと、今では思うこともあるのですが、きっと後になれば、こうしておいて良かったと思ってくれると確信しているのです。」
 「静之さん、あたしが怒っているとか、嫌がっていると思っているんっじゃないんですか? あたしにとっては望ましい相手ですのよ。ですから、彼女の子供を当然産むつもりですし、彼女と夫婦生活を共にしたいと願っています。彼女の戸籍上の性別が男だということは、天の恩寵とも思っています、結婚出来るんですから。このことを彼女にしかとお伝え下さい。あたしが夫役を務めるからと。さっきはああ申しましたが、あたしはあなた方に狙われたことを光栄に思っているのですよと、付け加える前に、静之さんが早とちりなさったのではないですか?」
 「ああ、嬉しいお言葉、あたしが静之だったらどんなに喜ぶことか、必ず伝えます。あたしが見込んだ通りの女性でした、貴女は。なのにあの子は喜びを表面に顕わすのを憚る性分で、もったいない限りですわ。ぴったしかんかんの相棒と性行為までしたというのに、その相手が妊娠したと知ったら、泣き出すなんて、何て我が儘なのか、きつく叱ってやりますから、どうかお気を悪くなさらないで。」
 「大丈夫ですよ、何とかなりますよ、静之さん。唯、自分がしたことに驚き、躊躇い、結果にも同じことを感じているんでしょう。自分がしたことが許されることか否かというような、善悪の判断や、自分のような人間が為すべきことは何なのかと、深く思い澱んでいるんじゃないですか、少し解るような気がしてきましたわ。何しろ自分でも気付かないうちに種馬にされてしまったということに、人間としての罪の意識を抱くということもあるでしょうし。」
 「まあ、何て察しの鋭い方かしら、びっくりしましたわ、妹もそう言って下さると、真面目に貴女を愛することが出来ると考えることでしょう、それも伝えておきますわ。」
 こんな話を姉の波乃と交わして、ナンシーは一旦家に帰り、産婦人科医を訪れ、検診を受けた。やはり妊娠しているとのことだった。ナンシーは絶対産むと決心した。両親を納得させるためには、どうしても静之の同意が必要だが、静之は応じてくれるだろうか?という、かすかな疑問をナンシーは抱いた。静之が同意するということは、勿論結婚するということなのだが。
 この、躰つきや衣装が女同士としか見えない二人の結婚を、多分ナンシーの両親は猛反対することだろう。「気が狂ったかナンシー!! 」と叫ぶ父の罵声が聞こえるようだった。カミングアウトする必要があるだろうと、ナンシーは腹を括った。「あたしはFTMよ」と宣言するとしよう。それも早いうちに。そう、今日にでも。その決意を静之が後押ししてくれたらなあと、ナンシーは一人ぼやいた。静之はお嬢様の感傷に浸っているとしか思えなかった。
 今の様子では、「貴女のお陰であたしは妊娠したのよ!」と言ったら、静之はワッと泣き出すに違いない。これは両親より手強い反応ではないかと、ナンシーには思えた。オンナに泣かれると困るんだよな、それが種馬でもあるとは、何という試練を天は吾に投げ与えたもうたことか。と、ナンシーは一人佇んでぽつねんとした。しかし、この道こそ私に科されたものではないか、真っ直ぐ進もうと意気軒昂に家に向かった。
 家の玄関を入ると、家を出ようと決意する必要があると思った。そうだ、今日から男装することにしようと、まず第一歩を思いついて階段を昇った。まず外形をFTMらしくして、両親を急いで納得させる取っ掛かりにしなくてはと思った。それで部屋に入ると、洋服箪笥を開けて、男物のジーンズにダンガリーを取り出し、それを着て、街に男物のスニーカーやソックス、短パンや柄物の長袖のシャツなどを買いに出て、ついでにオ床屋に寄って、髪型を男っぽくカットして貰った。
 男物の衣類を着る時の胸のときめきと、ゾクゾクするような官能の震えを、試着する度に味わい、それを自分らしさという性の古里に帰る喜びなのだろうと、一人物思いに耽りつつ帰ると、急いでまだ落としてなかった化粧も落としたが、却って肌の女ぽさが強調されたので、メイクの雑誌を広げ、男っぽいのを選んで、それを真似して、男っぽさを醸し出した。それで、男物ずくめに装って、街の良く行く喫茶店に入った。
 「ヘイ、ヤンガー、又来たぜ!」
 と、男っぽく、ママさんとウェイトレスに声を掛けた。「ええっ」という怪訝な顔で、二人はナンシーを見やったが、解らなかったので、「あっはっは、おいらだよ、ほら、ナンシーさ。」
 「何だ、どうしたの、その格好。まるで男みたいじゃないの、呆れたわ。」
 「可愛い女に惚れちまってよ、この様さ! 食べちゃいたいくらい可愛くてさ、何とか物にしようと、こう化けてみたのさ、どうだい、似合ってるだろう!? 」
 「相当イカレテルって解る程におかしいわ。本当に頭までおかしくなっちゃったんじゃないの、女同士でホの字とはね。あんたが男役になるとは、よっぽどの玉のようね。今度連れてらっしゃいよ、品定めしてあげるからさ。」
 「ああ、いいとも。ところでさ、早いとこ、この年寄りに冷や水を一杯恵んで下さらんか。こんな格好したら、熱くてよ。躰が火照っちまってさ。」
 「アッハッハ、面白いジョークだこと。」
とママさんが笑った。
「貴女の躰がホテルだからよ!」
まだ若いウェイトレスがそう皮肉を言って、氷の入った冷や水を持ってきて、ドンとテーブルの上に置いた。この辺の喫茶店のウェイトレスは、音大の学生が多いので、かなりシビアーなことを言う。
「ウェイトレスの体重は?」
 とナンシーは質問した。
 ウェイトレスはどぎまぎして、
 「ええと、確か48kgだったと思うわ。」
 「残念でした、貴女はウェイトがレスだから体重は無いのよ、あっはっは!」
 「ちきしょう、からかわれちゃったか。」
 ナンシーはアメリカンを飲むと、急いで家に帰った。さて、これからが大変なのよと、一人頷いて、覚悟を決めた。






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