両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  1


  [ 夢現、聞こえるはオルフェウスの唄うソネット「春の調べ」。見えるは、遙か昔の吟遊詩人の、非造形的でなよやかに流れるような肢体。微睡むは集う乙女達とムーサイオス。夢幻に麗し現身よ。吾は性の誘惑者なり、浮き沈みしながら流れる時の忘れ人なり、、、]


そう寝言を言いながら目を醒ました和男は、ナイトテーブルに置いてある日記帳とペンを手に取り、ベッドに身を横たえたまま、その通り書き留めた。ついでに時計を見やると、御前の10時半だった。長く寝過ぎた日に限って、和男は長い寝言を言う癖があった。
9月になると、阿寒湖畔にある和男の内の店には、アルバイトの学生達はもういない。春から夏にかけてと違って、小さな街は住民だけの静かで部落的な生活が始まる。夏休みには帰らなかった和男は、そんな時期になって突然、東京の私立の美術大学から阿寒湖畔に帰って来た。それには二つの理由がある。
一つは、肉体上最優先せざるを得ない問題だった。今年の春に初めてツベルクリン反応が陽転した後、大学の医師に、過激な運動は慎むようにと言われていたのに、学費値上げ反対のストライキに賛成した彼は、バリケード造りやデモや集会にと走り回ったためか、夏の中盤から咳と微熱が出始め、8月の中旬に病院に行った結果、結核に罹っていると診断され、二ヶ月間の安静を言い渡されたために急遽自宅に帰ることに決めたのだ。
と言ってもしかし、ストライキに賛成して立ち回ったものの、彼は誰とも口を利かず、唯黙々とストライキ仲間の中でポツンとしていた。
もう一つの理由は、意識上のものだった。初めのうち、ストライキを先導していた学生達に和男は魅力を感じていた。赤や白や青や緑のヘルメットを被っている若者達が個性豊かに感じられ、類型性と差異性を競い合い、確立した世界観を披露し合う彼らが、和男には羨ましかった。
いつも内向して口を噤む自身が没個性的に思えた。しかしついに彼はどこの党派にも身を投じなかった。それは正解だった。彼らは余りに血気に走り過ぎる、政治性に傾き過ぎる。和男はそもそも政治が嫌いだったという面もある。
一度び集会やデモがあると、たくさんの色とりどりの隊列が出発を待っていて、そのうちのどれかに何の気なしに、大体の方角を決めて旅立って行く旅人のように飛び乗ってみる。ところが行き着く先は大体同じ筈なのに、一度出発してみるや、互いの主張がどれだけ他派と違うかつばぜり合いして、差異性と排他性を丸出しにして、行き着く先を自分達だけの党派にしてしまう。和男は全ての色の隊列に加わってみたが、どこも同じだった。
そんな彼ら党派に属している「活動家」と呼ばれる人々に、和男は夏休みの終わり頃には失望し切っていた。学費値上げ阻止というスローガンが、いつの間にかボルシェヴィズムの活動家確保のお題目に利用されていくことに、和男は不快感を抱くようになっていた。それで、彼らから離れたくなっていたのだ。
そんな理由があって、肉体的にも意識的にも疲れ果てて病に倒れ、やむなく故郷に帰ったという訳だった。9月に入ってもバリストが続けられ、病の治療をするにはうってつけの機会ではあった。その点、徹底的にバリストを貫徹する彼ら活動家に、和男は、病気なりの感謝をしなければいけないかなと思ったりした。


体調は春から確かに落ちていた。春先から初夏にかけて躰の具合を記した日記には、例えば次のように記されている。


[ 陽射しが強い。木々はぬくぬくと若葉を生い茂らせた。梢の合間を緑色した陽炎がめくるめいている。風に揺れる空気の壁が見る私を圧迫する。私の躰に住み込んで出て行かぬ熱の塊め。陽炎の揺れる若葉を見るだけで、そいつが頭の中をゆっくりと隈無く駆け巡る。若々しく生長した樹木や草花が、今の私の、病んだ官能には耐え難い。外を眺めるだけで胸苦しい。
晴れた日に野原に散歩に行くと眩暈がする。ゆらゆらの陽炎を見ると吐き気がする。若葉をたくさん着けた樹木の中に居ると、呼吸するのも苦しい。空気の中にまで、私の官能を疼かせる緑色した粒子が混じっているようだ。
雨だけが救い。小雨の降る野原・田園・川の土手を長いことぶらつく。草木が雨に打たれて萎れかけているのを見ると、胸が楽になる。あのガラス張りの建物、蔓薔薇の垣根にアーケイド、雨の中、草花の手入れをしているあの人は誰だろう、親近感を覚える。その家からベートーヴェンの交響曲3番が聞こえていた。あれは第二楽章だった。
重く澱んだ大気、湿気た空気、しっとりと濡らす雨、打ち萎れた草木、アーケードのあるガラス張りの温室、それにベートーヴェンの「英雄」の第二楽章がどうしてあんなに似合っているのだろう、単なる気紛れかも知れないが、、、打ち萎れた英雄の気分を優しく包んでくれる]



こんな具合に和男は、陽転した後小雨の日に好んで、練馬の桜台5丁目から田柄町に到る田園の残っている地帯を歩き回って、体調が良くなるよう努めていた。
しかし、一向に気分が優れないまま、夏場を迎えてしまった。そして夏休み直前から大学はバリケード封鎖に突入し、和男はその渦中に入って行った。その運動が決定的に響いて急速に躰が気怠くなり、咳がコンコンと出るようになった。そこで慌てて病院に駆け込んだのが8月中旬だった。病院で初めて体温を計ってみると、予想を超えて、39度近くもの熱があったのには驚かされた。
静養するなら気候の温暖な東京の方がいいのだろうが、何分独りで寝ながら食事を作るのは不可能だし、外食に出かけるのさへ医師は反対し、兎に角一日中寝ていろと言うし、起きれば事実躰に響くとあってはどうにもならず、両親の住む阿寒湖畔に帰ることにしたのだ。
 それで診断を受けた直後、アヴィヨンで釧路まで戻り、そこからバスで湖畔に帰った。帰るまで両親には、自身が結核に罹ったということは黙っていた。しかし、コンコンと出る咳や膿んだ痰、赤らんだ顔などから、和男が病に冒されていることは両親にも一目瞭然だった。
もっとも、両親に尋ねられる前に和男の方から、東京の病院の医師に言われた通りの真相を話し、二ヶ月間ベッドで寝て暮らすことを伝えた。そして、医師に処方して貰って持って帰った薬を見せた。その上で、大した病ではないことを伝えた。陽転した核が小さく固まる前に少々飛び火して、発熱しているだけだと告げた。貰ってきた薬も軽いもので、発熱を抑えるためのアスピリンと、抗生物質のストレプトマイシンだった。


和男の部屋は、母屋の二階の南東に面していて、部屋は6畳の洋室で、南側の出窓脇にソファー兼の折り畳み式ベッドが置かれている。寝る時以外は夜具を押入にしまって、ソファーにして、部屋を広く使えるようになっている。そして部屋のほぼ中央にH型イーゼルが立てられている。それに合う籐製の椅子が置かれ、いかにも画学生らしい。
そのイーゼルには大抵、B4の大きさのクロッキーブックが置かれている。大概そのタブレットは2冊用意されていて、片方に描いたデッサンを横に置いて見ながら、別のタブレットに片方の改善したものを描いてゆくのが常だった。しかし今回の帰郷に際しては、タブレットは持って来たが、起きてデッサンをするのは禁物だった。腕を使うだけで胸に響くので、ドクターストップがかかっている。
8月の中頃に帰ってから、和男は医師に言われたように静養に専念し、1ヶ月間、寝たきりだった。お風呂にさえ入らなかった。彼の母は、あたかも彼の分身であるかのように、心配して、三度三度、カロリーの高い栄養豊かな食事を作ってくれた。和男の好きなメニューは、帯広から直送されてくるマトンの焼き肉だった。それは東京で食べることができる冷凍品とは天と地ほど違い、とても美味なのだ。
栄養豊かな料理を食べて寝ていた甲斐あってか、薬の切れる一ヶ月後には、咳もほぼ収まり、微熱も退き始めていた。しかしまだ顔色は土気色して不健康極まりないという状態だったので、釧路の病院に行って、検査のためにレントゲンを撮って貰い、大分よくなっているが、後二週間は静養しないとと言われ、二週間分の薬を受け取ってきた。往復はバスを利用したが、体具合はほとんど恢復していると実感できた。
大学のストライキは長引いていたので、和男は安心して静養に専念できた。一時、結核で死ぬ患者は減ったが、最近、薬に対して免疫力を持った、各種の薬の複数の免疫を持った複合結核菌が大量に出没し、治癒しにくくなっていると言われているので、早めにきっぱりと結核に別れを告げたいと思った。そんな危惧があったため、和男は寝るのにじっと耐えた。することと言えば、寝ながら日記を付けるぐらいのものだった。




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