ナルシスのカノン 9
次の日、和男は半日ギャラリーで尚美が来るのを期待して待っていた。しかし彼女は来なかった。代わりに東京の大学から和男宛に通知が届き、ストライキは解除され、すぐに授業が開始されると知らせてきた。当初の学校側学費値上げ額の80%で交渉が妥結したというものだった。
もうほとんど咳も熱も収まっていた和男は、翌日急遽東京へと飛び発った。そして東京のアパートに着くと早々に、尚美にそれを手紙で知らせた。その手紙には、次のような文章も付けられていた。
[僕は、自分の周囲を氷で固めた世界に住んでいるみたいだ、どこまでも透明な世界に。そして僕自身も透明になろうと。その中で僕の心は想いの世界に自身の肉体を引きずり込む。氷の透明さが距離や硬さを超越するように、僕と想いの間にには何の障害も無いように。僕は現実の固定的肉体から免れたいと欲する。それはメタモルフォシスの欲求だ。想像力自体への変身の欲求だ。]
和男は、想像力の源泉が自在に画布に展開しないのが大きな不満の種だった。いつも表現力不足に悩まされていた。モデルの在る具象物の絵なら、写真のごとくに正確に隅から隅まで描写できるのに、内面的想像力をそのまま写し出す段になると、途端に腕が鈍って筆が進まなくなってしまうのだ。
いろいろな幻想的テーマをたくさん内面に蓄えていても、それをそのまま存分に投影できないのだ。なのに彼は、内面の幻想を描きたいという欲求を常に抱いていた。それでたくさんの内的意識は、画面に展開されずにロマネスクな物となって、心の奥底に沈潜して溜まっていった。シュールな絵の素材は日の目を見ぬままに和男の胸の裡に蓄積され、彼はそれを日記に書き付けることはできたが、絵としては引き出せないでいた。
シュールやアンフォルメルの画家になりたいのだが、それらの流派の画家としては、今のところ落第だなと、いつもがっかりして思った、それでも尚、石にかじりついてでも幻想を引き出したいと祈っているのだった。
唯一いい傾向だなと思える系列の絵は、阿寒の大自然をモチーフにした幻想的な森林や城や、凍った湖に、ギリシャ・ローマ神話を重ね合わせて画題としたものだった。神話的世界は半具象的であり幻想的であり、童話的でもある。具象物の絵に自信があり、その上で自身の幻想性の華やかな開花を夢見る彼にとって、神話世界の絵としての展開は手頃なモチーフだった。
絵の主題として今一つ興味深いのは、イーリアッドに出てくる女神達の対立抗争の場面だった。この女神達の抗争は、実に人間の女性達の嫉妬と同質なのだ。神話なのに妙に人間臭いのが女神達なのだ。へーラーやアテーネー、アフロジチ、この3女神の美しさ較べからトロイ戦争が始まったと言われるくらいだ。この3女神を描くなら、当然3人の美女を模写すればよい。
しかし、それらの女神達よりももっと幻想性に満ちた暁の女神(エーオース)や、眠りの神(ヒュプノス)の方がテーマとして好ましかった。自在にそれらに適合する幻想性を添加可能なイマージュのような気がした。
それに眠りと曙光とは、目覚めに関して共通性を持っている。和男の場合は逆だが、つまり、眠りに沈む頃、暁の女神に見つけて貰おうと願うわけだが、いずれにせよ、薔薇の肢体をした暁の女神に見留められつつ、眠りの神の術にかかって眠り込みたいという倒錯した願いを持っている。暁は、目覚めさせるだけとは限らないのだ。そのような関係は、メルヘンチックな想念だ。眠る人間の方は殊に若い美女が似合う。女神の視線を浴びつつ眠る乙女の姿ほど、人間の原初的官能美を刺激する図は他にない。
それらは、夢魔(スクブス、インクブス)といった、純夢想的人間性に由来するものではないが、眠りについていろいろな考えがあるものだと、和男の興味を引くのが、眠りというものだった。
夢魔のような系統の発想と、人間と蛇についての深層心理とは何らかの関係があるように、和男には思われた。
蛇という生き物は、有形無形に人間の深層心理に巣くっているように和男には思えた。気味が悪いという点でも、蛇とヘルマフロディトスは同類だなと感じられた。神話の世界でも蛇は独特な気味悪さを持っている。ゴルゴーンやメデューサなどにもその傾向が窺われる。
それらの想念は、半ばグロテスクであり半ばファンタスティックでもある。和男はそのグロテスクな面をメルヘンチックに改作するのが趣味だった。例えば、キュービストがよくやるように、鼻筋と口元を中心線にして、人間の横顔と正面図を組み合わせたものを、コブラの顔に描いていくようなことを彼は実験していた。
尚美の正面図と和男の横顔をくっつけ合わせてコブラの顔に表現したデッサンのコピーを彼は尚美に送ったこともある。
と言っても、和男は蛇が好きというわけではない。嫌いな部類に属する生物の一つだ。唯内面的に避け難い重みを持った生物のように思われる。何らかの形で、人間の内奥に迫ってくる、一種の不可解さを有する生物のように感じられる。クレオパトラも、死ぬ時は毒蛇におっぱいを噛ませたという。
そういう意味でも神話に登場する資格があるように思われる。ファンタジーの縁の下の力持ちといった存在価値があるように思われる。そんな理由があって、時々蛇を画題として取り入れていた。お互い寂しい目にあっている存在として、蛇にも場所を与えてやろうと観念的に考えている。
二年半も東京で修行している間に、自分で納得のゆく作品に仕上がったのは、たったの3点けだった。3作ともモチーフは同じで、[埋葬=inhumation]という題名の連作で、色の使い方もほぼ同じだが、キャンバスの大きさが違っていた。一つは、F30号、もう一つは50号、もう一点はキャンバスボードでFの6号だった。
大学の授業で課題を科されることもあり、勝手気儘に自分のモチーフを絵にできる時間はごく僅かなものだった。休みの日や少ない暇な時間を見つけては、黙々とデッサンや油絵に励んでいた。
一本立ちする芸術家にとって、その指針となる、前途に展開可能な大いなるエネルギーに満ちた、独自の様式というものをまだ手に入れてはいなかった。せめて、この刺激の多い東京で、その独自の様式というものを確立するまで修行したいと思った。
芸術論の本も読むように心がけ、自身が抱えている絵画的イメージが、よりシビアーに、そしてシュアーに研ぎ澄まされてゆくように感じられた。ナルシシストの絵画や文学の項目には特に心を引かれた。
いつも独りぽっちの彼には、内的に孤独で、多くの幻想や、病的なまでの秘密を他人に打ち明けることなく、胸深くに秘め、尚かつ自惚れ(うぬぼれ)と高慢さを持っているという、ナルシシスティックな性向描写が良く解るような気がした。和男の場合は、まだ、芸術的ヒポコンデリー(心気症)が生きているようだった。
フランスを統一したフランソワT世の遠征に敗れて、イタリアから、ルネッサンス末期のマニエリストを中心とする芸術家達は、フォンテーヌブロー宮に連れてこられ、彫刻や銅版画や絵画などを創らされ、それ以後フランスは、世界美術の中心として芸術的に栄えて行ったのだが、レオナルドを初めとする芸術家達は、さぞ寂しかったことだろう、仲間はいても。
彼ら、マニエリスト達の作品には、生気がない。フランスで厭というほど疎外感を味合わされたことだろう。和男も東京で疎外感に苛まれているという点で、彼らの作品に親しみを覚えてもいい筈だったが、なかなかに世界の大物との差は抜き差しならぬものがあるようだった。
学生運動には何の興味も無くなっていった。彼らは、貫徹した非自然主義の人形主義のように思えた。彼らは、手下がいれば何でもできると思っているらしく見えた。万能感だ、ナルシシズムの要素の一つだ。
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