両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  11


 和男は睡眠誘導剤を飲まなくても、明け方になれば眠れるという、彼本来のリズムに戻れ、ホッとした。しかし、気分が浮揚する薬を貰いに、学生相談室には通った。その薬を飲むと、顔付きも良くなるからだ。鬱獣でなくなりそうだからだ。
最近和男が好むようになった画家は、ギュスターヴ・モローだ。それは彼にとって大水脈だった。密室の中で描き出される神話世界の描写は、彼にとっていい手本になった。
和男は神話的世界を描くのが好きだったためと、内密性の現象学を展開するモローの絵に、自身の問題意識を表出するという欲求に駆られるように思われるためで、急速にモローの絵の模写を試み始めていた。密封された神話宇宙を、密室の中で再現すること、宝石やラデン等の冷たい輝きに煌めく装飾に身を窶す、倒錯的官能美を表現すること、それは多分に世紀末的イメージを領有している。
『踊るサロメ』、『死せる詩人を運ぶケンタウロス』、『妖精とグリフォン』等に出てくるサロメやオルフェウスやグリフォンは、多分に倒錯した美意識に裏打ちされている。自然的天性的に倒錯気な和男にとって、モローの絵は、自身の生の確証のような気がしてきた。貴重な先人であり、最大の守護神のような気がした。
そしてモローの絵の主人公達の形姿に看取される、S字状曲線もほどほどで、マニエリスム期の、極度にくねらせて自然性を失っている身体像よりも、健全なことは確かだった。抵抗無く感受できる作品群だった。モローの曲線は適度に心地良かった。
まず、クロッキーブックに鉛筆でデッサンをした。6点ほど仕上げた。仕上がりは予想以上にうまくいったので、彼は充分に満足した。これまでの、写真を撮ったみたいな画風から、人間味のあるものに変わって行くようで、和男はしめたと思った。それは、モローの絵の人間らしさ故のようにも思われた。
モローの曲線美を会得した彼は、その線を自分の作品に登用することを考えた。『埋葬』というテーマの連作に出て来る、奥津城に眠る乙女の像を、モロー風の宝石や曲線を織り交ぜ、暁の女神の薔薇状の肢体に調和させるという絵の試みだった。
それらを次に着彩していった。まずFの10号で試みた。何度も油絵の具を塗ったり、削ったりして、2週間かけて完成させた。それを基に、少し大きなF30号に写した。それには木炭でデッサンせずに、直に絵の具でデッサンした。意外と気に入ったのができたので、もう1点、Pの50号のに描いた。3作ともまるで同じ物ではなく、形姿や色合いが微妙に異なったニュアンスになっているので、連作というものだ。
この3作のうちの1点と、『埋葬』の3連作の一つをパトロンになってくれると言った女性に買って貰おうかなと彼は考えた。新しい方のは、『生と死の狭間に』という風にした。
最近の和男は、まだ20だというのに、死についての主題を追い求めるようになっていたが、それは、東京であまりに孤独に生きているためと、阿寒の冬の静寂の死のイメージに脳裏を占領されてしまっているためのようだ。
『埋葬』の6号のと『生と死の狭間に』の10号の、両方ともキャンバスボードに描いたのを、それに合う細い木製の木枠のような、飾りの無い額縁を買ってきて、収めて、ポジとネガの写真をたくさん撮り、手放しても手元に資料として遺るように気を配った。
それからパトロンになってくれると言った彼女の言葉に期待して、葉書を書き、2作ほど見て下さるようにと頼んだ。電話は何故か躊躇われた。上手く手早く用件を伝えることができないような気がしたので、葉書にしてまずはどんなものかと手探りを入れてみようと思い付いたのだ。そう、少し気後れしているのだ、初めて自分の絵を売ろうという期待と不安が相半ばするために。
5日ほどで返辞が届き、クリスマス後の日曜日の昼下がりの2時に、作品を持参して彼女の家まで来るようにと、駅からの道順が書かれていた。


指定された日曜日は幸い青天だった。青天の霹靂になって、買ってくれるという期待が壊れるのではないかと、心配しながら、空模様に注意しながら歩いて行った。
初めて自分の絵を買って貰うという、一種の自己投企的行為に彼はぼおっとした気後れを覚え、顔を赤らめて、通された応接室で顔を俯き加減にしてじっと、じれったい時を過ごしていた。
しかし暫くすると、気後れ気味のままだが、周囲を見やるくらいの余裕は出て来た。その部屋は質素な感のある6畳の洋室だった。部屋に絵は飾られていなかった。このくらいの屋敷に住んでいるのなら、有名な画家の絵を購入する余裕は無いのだろうなと思え、和男のようなまだ無名の画家の描いた作品を買い、後になってその作家の株が上がるのを期待して投資するのが妥当なのだろうと察せられた。
しかし、和男と同じ立場に立たされている若者が、他にも何人かいるのかもと急に思われ出し、もしかすると、今日は買ってくれないかもと、緊張は弛まなかった。
家政婦さんが、珈琲とケーキを2人分持ってきて、卓上に置き、和男に食すように勧めた。しかし和男は遠慮して、パトロン女性が現れるのを静かに待った。
そのテーブル以外に部屋の窓際にデスクが置かれ、その上にパソコンらしきものが乗っている。どのような方面に使われるのか解らなかったが、最近はいろいろな分野に進出していて、和男も1台欲しいと思っていた。その画面に線や色を自在に投影できるのが欲しいなと思っている。




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