両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  17


 二人は一緒に尚美の父を迎えに行くことにした。和男は尚美の父親にど突かれるのではないかと、内心心配していた。尚美の両親とは初対面だったので、尚一層心配だった。到着ロビーで二人は緊張して待っていた。和男は何とか言わねばならない立場にあることは解っていたが、何と言ったらいいものか迷っていた。
そうこうしているうちに尚美の父親がゲートから出て来て、尚美に笑いかけた。
「こちらは山本和男さんです。」
「お初にお目にかかります、宜しく。」
「ああ、娘の友達の山本君ですね、宜しく。」
三人は、和んだ雰囲気で挨拶し合い、喫茶室でくつろいでからモノレールに乗り、浜松町に行き、JRに乗り換えて、池袋まで行き、そこから西武池袋線に乗って、練馬から歩いてアパートに直行した。
そこで、和男の部屋と尚美の部屋が隣り合わせだということに気付いた尚美の父は、初めて、二人の仲は決定的に深いに違いないという、結論に近い断定をせざるを得なかった。そして俄に顔を少し荒げて喋りだした。
「山本君、私の娘と一緒に東京に出て、同じ屋根の下に棲むのであれば、まずもって父親の私の許可を受けてからにすべきではなかったのかね、これじゃあまるで駆け落ちではないか、みっともない恥をかかせてくれたね。」
それからはドタバタと、尚美が和男を庇い、父親が和男をどやしつけ、ぴんたを喰らわせ、和男がひたすら謝罪して、尚美を必ず幸福にしますから許して下さいという形で、何とか早く、父親の怒りが収まるのを待つという経緯になった。しかし、尚美の父は、怒れば怒るほど気分が激昂してゆくようだった。それで20分近く、部屋の外で押し問答を繰り返し、父親がくたびれて、やっと喧嘩は終わった。
「ちょっといらっしゃい、尚美、話がある。」
父親は尚美を連れて出かけた。和男は二人を呆然と見送った。駆け落ちのスリルを味わうのに夢中で、現実の掟に無頓着過ぎた反省が、今になって重くのし掛かってきたところだった。後悔の念が酸っぱく喉元を通り抜けて、少しヒリヒリしている胃の腑に流れて行った。
和男は、いつどんな顔で尚美が帰ってくるかを気にしながら、自室で上を向いて、頭の後ろで手を絡ませて寝ころんでいた。きっと、尚美も怒られて絞り上げられているに違いないと想像された。
1時間半して尚美がすごすごと彼女の部屋に戻って来た。暫くして和男の部屋に入って来たが、目の周りが赤く腫れていて、泣いて別れて来たらしいと察せられた。
「釧路に帰るのかい?」
「これからパパと銀座で夕食を一緒にして、話し合いを続行することになったのよ。」
そう言うと、彼女は又自分の部屋に戻って、顔を洗い、お化粧して出かけて行った。それで和男は駅近くの中華のレストランに行って、麻婆豆腐定食を食べて、ゆっくり歩いて帰った。布団を敷いて横になり、考えた。いずれにせよ今夜中に、尚美との関係に決着がつくだろうと思われる。長い夜だった。
そして夜の10時、尚美が小走りに駈けて来て、和男の部屋に飛び込んで、迎えに出た和男に飛びついて言った。
「貴方との仲を許してくれるってパパが言ってくれたわ、嬉しいわ。但し、すぐに婚約するよう貴方に決心して貰うよういいつかって来たの、いいでしょう?!」
和男は、ほっとした拍子に頷いてしまった。そこをすかさず尚美が和男の頬に接吻した。
「愛し合っている男と女が行き着く所まで行ってしまったのなら仕方がない、早く婚約しろって言うの。貴方と一緒に住んで、これから数年、カルチャーセンターへ通うってことで話はまとまったの。」
二人は抱き合って喜びを分かち合った。その夜、二人は安心して幸せだった。眠れなかったが、大いなる安らかな世界にいるように感じられた。
次の日、尚美の父親が帰るというので、夕方、二人して羽田まで送って行った。父親は、ゲートで、「私の娘を大事に扱って欲しい」と、一言、和男に語りかけた。「必ず」と返辞をし、和男は深々と頭を下げた。
その父親の言葉は、二人の結婚へのG O サインと受け取れ、彼は身が引き締まる思いがした。ともかくも、二人の結婚が、現実の、つまり公認のものなりつつあることが未経験の二人に、これは社会的な風習の決まりの中に繰り込まれるのだと、解ってきた。いろんなことを積み重ねないと周りは納得しないのだと。


次の日、尚美に手伝って貰って、日本薔薇十字会に、F50号の2作を持ち込んだ。2作とも審査を通過し、搬入した。一般に公開されるのは明日からだ。この会でなら友達ができるに違いないと思った和男は、次の日に美術館に尚美を連れて行き、自分の絵をまず眺めた。すると、絵の横に、[会友推挙]という札が付いていた。もう会員になっているつもりでいた彼はびっくりした。それから全部の作品を見て回った。
和男はこの会の事務所に行き、この会の懇親会のような催し物はないかと訊いてみた。すると、1年に1度会があり、会友になると案内状が届くとのことだった。その会に是非出席しようと思った。東京にいる間にこの会の会員になるという目標を立てた。


4日後、尚美の父親から和男宛に手紙が届き、早く結婚するようにと、学生結婚でいいから、もう少しましな所帯を構えて欲しいと督促してきた。アパート代は援助すると申し出てきた。何て心の広い人だろうかと和男は思った。しかし、別のことを口にした。
「女の子の父親はすぐにこれだから困るんだ、全く気が短いんだから、女の子の適齢期よりずっと短いんだからやり切れないよ。今のままで大学を卒業して、それから正式に挙式したってちっとも遅くないじゃないか、うーん、尚美。」
「それは駄目よ。今度の夏休みにけりをつけなくちゃ。男と女の間にはしっかりしたけじめが肝心だと思うわ。貴方のその手の指の節くれ立った折り目のように、一つ一つ積み重ねて行く努力をするべきだと思うわ。
ぐずぐず抵抗するのはお止めなさい。女の子の方に結婚の申し込みをさせるなんて、貴方、そこまで倒錯しているの。男らしく算段して結婚式の日取りも決めて頂戴。会場も探しましょうよ。」 その日和男は、尚美に促されるままに阿寒の両親に手紙をしたため、現時点での成り行きを記した。
その手紙が届くよりも早く、阿寒の父から手紙が届き、すぐに尚美を連れて阿寒に帰って来いと言って来た。尚美の父親から知らされたというのだ。
これはどうなることかと心配しながら、2人は飛行機に乗った。ひとまず釧路で別れた。 早くも次の日、尚美の両親と彼女がが和男の家に訪れた。急遽北見から帰ってきた姉のゆかりも同席して、話し合いが始まった。和男の両親は、尚美の父親に誠意を見せろと要求されたことについて、一応納得して、相手の言い分を聞き入れる様子だったが、2人の結婚に反対している姉のゆかりがクレームをつけて大騒動になってしまった。
尚美は、和男に女物のスリップを送ったり、お寺の境内でお漏らしするなど性的素行が悪い。和男が手を出したのは尚美の方に責任があると、一気にまくし立て、揚げ句の果てに、尚美は[好色選挙法違反]であると、予め用意しておいた紙を彼らの目の前に広げて示したのだ。そして、2人の結婚には反対であると強調した。
和男は「あっ」と呻くと失神した振りをしてひっくり返った。その胸ぐらを掴まえてゆかりは、「何て女々しい真似を!」と言って引っ張り起こした。
それを見聞きした尚美の両親はかんかんに怒ってしまった。「それなら娘に手をつけた和男の責任として、6千万円支払え」と要求して、揃って引きあげてしまった。
その日、和男の家は大騒動だった。姉はとことん和男の愚かさを追求し、女を見る目がないと言い張り、両親は、若気の至りだと言って叱責しという具合だった。しかし和男は、声を張り上げて、自分は本気で尚美を愛しているし、結婚するつもりであると言って退かなかった。家族が認めないなら、この家を出て行くと、決意を表明した。
和男のその決意の硬さにほだされて、半ば許していた両親は、これは仕方のないことだという結論に達し、ゆかりを諭し、次の日、暴言を吐いた謝罪のために、尚美の家に行かせた。ゆかりは嫌々ながらも承知して出向いて行った。
その功が認められ、3日後に、今度は尚美の家で会談し、ひとまず婚約し、夏に式を挙げることで話がついた。これで1幕降りたなと和男はほっとしたが、それにしても早過ぎる結婚に頭を垂れた。
両親は札幌に行って、尚美にダイヤモンドの指輪を買ってきて、婚約指輪にした。後の物は釧路で賄った。
 二人は、住んでいたアパートの近くの、新築のマンションの、2LDKに入る契約を結んだ。婚約中からの、公認の同棲生活が始まった。4月から2人はそれぞれの知の分野を開拓するために出かけるようになった。尚美は、自ら望んで学校へ通うのは初めてのことだった。知性化される体験は楽しさで溢れていた。
そんなある日、尚美は和男の日記帳をを捲って、次のような句を見つけた。


     [何故に逃れるのか、性から知から、
      何故に求めるのか性を知を。]



「彼が思い悩んでいるのは、性と知と倒錯か、まさに知性に悩んでいるんだわ。」


      [どこに行くの?
      どこまでも。
      何のために?
      貴方に付き物故。
      それでは、墓場まで着いて来れるか?
      納骨堂の中までも。
      何ということを言うのか?
      貴方の影だから!]



「今度は、生と死と影か、あの人意外と文学的だわ。」


     [ My Gothic mind. Her gossip mind. ]


「Her というのはあたしのことかしら?! 憎たらしいわ。」


     [お漏らシストCの告白。]


「あたしのことかしら、もう許せないわ。」


次の日、尚美がカルチャーセンターに行かない日だったので、和男は彼女を連れて大学に行った。いろいろな建物や授業風景を見物させた後、噴水のある広場のベンチに腰を降ろしていると、男子学生が1人通りがかり、和男達を眺めて、こう言った。
「いつの間に恋人なんか作ったんだ、あの鬱気者(うつけもの)めが。」
尚美はおかしそうに首をすくめ、笑いながら言った。
「貴方、[うつけもの]呼ばわりされているの?!」
「彼奴は自治会員で、最近仲が悪くなったのさ。」
和男は苦々しい表情でその男子生徒を睨んだ。
「貴方、恋人のお漏らしまで姉さんに告げ口するなんて、本当、うつけ者よ。そういうのを男のお漏らしっていうのよ、まるでお漏らシストCの告白って図だわ、随分格好悪いんじゃない! 何て女々しい真似を。
Your gossip mind には呆れたわ、いい気味よ。」
自治会員は笑いながら姿を消した。和男はばつが悪い想いでいっぱいだった。しかし、尚美はいやにお漏らしに詳しいなと思った。


その日の夕食に、尚美が初めて作った白菜の漬け物が酢っぱ過ぎたので、和男は冗談を言った。 「この白菜は[ウ漬け物]だ! とても食べられないよ。」
「何よあんた、[ウツケモノ]だなんて、昼間の意趣返しのつもり、いいわよ、1人で食べるから。
それから貴方、あたしのズロース穿かないで頂戴、こんなに汚しちゃって、あんたもうお痔さん?」
「ああ、もうおくたびれアヌスさ!」
「もう、女物の下着と臀別(訣別)して、糞別(分別)をつけて頂戴!」
 尚美はそう言うと、1人で大笑いした。
2人は結婚前から夫婦喧嘩を始めた。正にうつけもの合戦だった。その日から和男は、日記帳の引き出しに鍵をかけることにした。


アッという間に夏休みが来て、2人は釧路で結婚式を挙げ、新婚旅行に九州一周りのコースに向かった。尚美は、和男が一端の芸術家になったら、ヨーロッパやアメリカに連れていってよとさかんにせがんだ。和男も是非行ってみたいと言ったが、いつのことやらと、、、
又あっという間に半年経って、和男は大学を卒業し、中途半端な社会人になった。まだ絵描きとしては独立できない新人の画家だった。和男は一生懸命努力して、その甲斐あってか、2年後、薔薇十字会で佳作賞を受けて、少々名が知られるようになった。会員にもなれた。着実な進歩だった。その会で数人の友人もでき、互いに自分の感性を表出し、刺激し合った。彼らと組んで、渋谷の画廊で個展も開いた。
しかし和男は、4年後、アメリカ東部海岸ツアーに尚美と一緒に行き、ソーホー地区の若い芸術家達の作品を眺めて、新しい刺激を受けて帰り、阿寒に帰還した。
東京にいる間に、画商とも知り合いになっていたので、阿寒から、インターネットに作品を載せて連絡すれば、彼らの方から珍しげにやって来たり、和男の方から赴いたりし、知人達も遊びに来たりした。
やはりナルシスは泉の畔が好きだった。そして5年後、和男は2人の子を持つ父親になり、油絵とレリーフと商売に勤しんでいた。


                 完




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