両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  3


  時は10月初旬の終わり頃で、森林はもう紅葉が終わろうとしていた。木々の葉は急速に白っぽくなろうとしていた。外気の中で吐く息も白っぽかった。熊祭もまりも祭も終わった。
大学はまだバリスト中なので、東京に戻る必要はなかった。和男は陽が柔らかく射す昼下がりに、時々外の空気を吸いに出るようになった。外気に触れない触れない陽溜まりは温かいが、外気は肌を切るように冷たくなっていた。もう陽溜まりにいても頭痛や眩暈に襲われることはなくなっていた。体力は着実に恢復していた。
父の経営する売店は数日前に閉じた。ただし、売店と内部で連絡しているアトリエ兼用のギャラリーは開かれたままで、ほんの時折見える客がギャラリーから売店へと出入りしていた。その店とギャラリーは、和男の家から徒歩で5分ぐらいの距離にある。その売店は、コタンとボッケを結ぶ、例の細い道に面している。
その店は丁字路の角地にあり、売店はその細い道に面していて、ギャラリーは曲がる方に面している。そしてその曲がった方の道は、すぐ近くの遊覧船乗り場に通じている。それでたくさんの客がそこを通り、船を降りてからそのギャラリーに入り、売店にも入るため、お客さんがとても多いという立地条件に恵まれていて、繁盛している。
そのギャラリーは大きなガラスの壁とドアーが道に面しているので、外から中が良く見える。そしてギャラリーの中程には、大きく太い樺桜の切り株で作られた台座が置かれている。高さにして40センチ程、直径は約1メートルある。その台座に座って、父はよく彫刻作品を彫っている。
客が滅多にしか来なくなったギャラリーには、売れ残り品や父の最新のレリーフに混じって、和男の油絵が1枚壁に掛けられていた。その部屋が陽当たりもいいし暖かなので、しばしば訪れた。しかし室内には鼻につく灯油のストーヴの油の匂いがして、まだ治りかけの和男には刺激的だった。病に罹ると嗅覚が病的に過敏になるようだ。ガラス戸越しに陽当たりが良く暖かいというのは、結核菌が皮膚にはびこりやすいというマイナス面もあるのだが。
和男は父の稼業を継ぐように両親に勧められていたが、美大では洋画科に属していた。そして2月生まれの彼は今20歳で、大学の3年だ。彼が芸術のうちで最も好きなのはデッサンをすることだ。高校の頃から釧路にあるデッサン教室に通っていた。その成果もあってか、最近ではなかなかいいデッサンを短い時間で仕上げることができるようになっていた。
しかし今はまだ、好きなデッサンも長い時間はしない方がいいだろうと、釧路の病院の医師は診断した。デッサンをするだけでも腕に重く負担がかかり、それに伴って肋膜が刺激され、肋膜炎に罹りかねないからだ。肺結核と肋膜炎は親しい同類なのだ。
それでも釧路の病院の帰りに、チェコ製の、木炭の粉末を固めて細く円い棒状に作られている品物を買ってきた。その木炭を使う限り、画面に不均等な濃淡が出ることもなく、狙い目通りの陰影の画質が得られるので、和男は好んでこの木炭を用いている。この木炭とクロッキーブックを身のそばに置いておくと、描かなくても心が和むようで好ましかった。


ぽつぽつとギャラリーに出入りするようになって次期に、樺桜の台座に腰を降ろして日記を付けていると、高校時代に釧路のデッサンスクールで知り合い、以来仲がいい尚美という女の子が覗きに来た。
尚美は高校を卒業した後、家事手伝いをしながら、まだデッサンの学校に通っている。その尚美が珍しくインディアン服を着てやって来たのだ。彼女は時々このギャラリーを訪れるのだが、今時珍しく東京に行ってる筈の和男がいたのでびっくりしたようだった。それに彼女は、今年の夏休みにも和男が帰ってこなかったので気にしていたのだ。尚美は和男より1歳半年下だ。
「今日は、和男さん!」
その聞き慣れた声に気付いて、和男は急いでガラス戸を開けて彼女を室内に招き入れた。そして彼女の着ている衣服やブーツに視線を投じた。
「やあ、尚美、久しぶりだね。そのインディアン服似合うね、どこで買ったの?」
「これ十字街のブティックよ、そんなに似合うかしら?」
尚美は自分の着ている服に目をやりながら、そう訊いた。
「うん、ここ阿寒じゃ特にぴったしだよ。」
そう言われて尚美は、ここ阿寒以外では似合わないと言われているような、そしてこの服が自身の容姿を引き立てていると言われているのではないように思われ、一瞬憮然とした表情になってしまった。
「釧路では結構若い人が着ているわよ、男も女も。今流行っているのよ、貴方知らないようね。」
「そいつは知らなかったな、僕も着てみたくなったよ、そのインディアン服。 ところで君覚えているだろう、去年の夏にさ、二人して見物しただろう、物見高くさ、本物のインディアンを。彼らは君の羽1本よりかずっと多くの羽で頭部を飾っていたね。」
 「ええ、去年のことは印象深く覚えているわ、あれから半年ぐらい経ってインディアン服が流行りだしたのよ。あの人達は酋長さんだからたくさんの羽を挿していたのよ。」
そう言うと彼女は樺桜の切り株に腰を降ろし、従順そうないつもの眼差しで和男の顔を見つめた。和男はその眼差しの柔らかさに見惚れる心地がして、一呼吸置いてから喋りだした。
「あの時閃いたんだ、この街にはインディアン服が新鮮に似合うってね。何しろこの小さな街が国際観光都市になったような気がしたんだ、インディアンにアイヌ人に諸外国の外人さんに日本人が来てさ、賑やかでいいじゃないか。
ちょっと間違えないでおくれよ、僕はアイヌ人にも独立性を認めているんだからね、インディアンにも同じくね。差別ではない独自性をね。小さな部族は諸外国の少数民族と連携して、自分達の文化と伝統を発展させ変革させるっていうのも悪い発想じゃないね。去年のインディアンもその為に来たんだよ。この街だって、元はと言えばアイヌ人が開拓したんだしね、彼らには深い恩恵を蒙っているんだよ。
それでと言っちゃなんだけどね、この街にインディアン服を着て現れるというのはいいアイディアだと思うよ。民族性のレパートリーが増えるしね。それでさっきああ言ったのさ、解った? 芸術もそうだけどさ、人間はそれぞれの個性を競い合うべきだと思うんだ、いろんな人達と接しながらね。と言っても僕は東京では独りぽっちだけどね。」
尚美は少々得心がいかぬという表情で、頭の後ろにヘアーバンドで留めていた1本の白く長い羽を抜き取り、手先で羽の根元をくるくる回して、喋りだした。
「あたしのママが言うのよ、あたしはもう少し綺麗になれるって。でも女の容姿の美しさは本当に短い期間だって。それがうんと気になることなのよ、堪んないのよ、アッという間に適齢期が通り過ぎて行っちゃうってことが。」
なるほど尚美は年々美しくなっているなと思いながら、和男は黙って聞いていた。
「それを想うと、美しさにだけ頼るよりは、別のことに夢中になるのも悪くないって気がするの。あたしも大学に行ってもう少し学問すれば良かったのにって思ったり。でも、論理が群を為して他人に迫ってゆくのは女には似合わないとも思うし、本当、貴方には似合うけど。だからあたしは無理して大学に行かなくてもいいんだって思ったり、迷うところなのよ。」
そこに和男の父が散歩から戻って来た。尚美は軽く挨拶した。二人は外に出かけた。和男は日記帳を手に掴んでいた。二人は、コタンに近い[エルム]という名前の喫茶店まで行こうと、歩いて行った。手を接ぎながら歩いていると、この辺の人々は、それだけで二人は深い恋仲なのだという風に見やる。二人はそんな通りがかりの知人達を殊更無視するのを楽しみながら歩いて行った。
[エルム]に入ると、入り口近くに金魚を容れたガラス張りのケースがあった。二人はその鉢のそばの席に陣取った。[エルム]というのは、ヨーロッパ産のニレ科の木、又は国産のハルニレの別称であると、植物に博識なこの店のマダムから聞いたことがある。
もうとっくに観光シーズンが終わったせいもあって、カフェーの中には二人の他にはマダムしかいなかった。彼女が直々に注文を取りに来て、和男に微笑みを送った。ついでに恋人風に見える尚美の顔をしげしげと見やった。二人はストレートのモカを頼んだ。マダムは早速サイフォンに珈琲を入れて準備を始めた。
「今日はお化粧してないんだね、尚美、いつもの青白色の顔が似合うのに、、、。」
和男は、高校時代の、尚美が素顔でいた頃の顔を想い出そうとじっと見つめた。彼女は素顔を直視されて照れ笑いを浮かべた。
「そうよ、だって貴方がこの街に帰って来ているなんて知らなかったんですもの。でもあたしはまだ、毎日お化粧するような歳でもないのよ。電話でもくれれば良かったのよ。 ところでどうして夏休みでもないのに今頃帰ってきているの? 貴方、夏休みには帰らないで、、、大学の方はどうしたの?」
当然尋ねられるだろう質問を耳にして、和男はストライキの様子を事細かに説明せざるを得なかった。そんな中で和男は肺結核に罹り、8月の後半にやむなく帰って来たのだと、くだくだ説明した。 マダムが熱い湯気の立ちのぼる珈琲を運んで来たので、二人は砂糖とミルクを入れて、スプーンでかき回したが、口はつけなかった。
「胸の病だなんて、ロマンチック! 顔付きに似合って繊細なのね。」
和男はそう言われたことに満足感を覚え、尚美にしばしの微笑みを送った。それは繊細な感受性の確証を示す所作のように和男には思われた。微笑みを送ったことに彼は自己満足した。
「でもね、少し気になるんだよ、抵抗があるというか。最近僕が好きになったトーマス・マンが、『トニオ・クレーゲル』の中でね、今言ったみたいなこと言うのは未熟だからだって書いてあるんだ。でもまあいいさ、未熟な感性は粗野というわけではないだろうし、意外とナイーヴな華やかさがあると思えるしね。」
「未熟な華ね。」
「そうそう、そういうことだよ。君、いい言葉を思い付くね。 でもねえ、それにね、しかしだね、大学の文学の先生がね、若いうちに感じたことはノートに書き留めておくと、後になってとても役に立つって言うんだ。文学的にだけでなく、絵画の内的意匠にもなるって言うんだ。それで僕は日記を付けることにしたんだ、他人には見せられないけどね、何しろ感じることが未熟なものでね、自分でも解るんだ、幼いってことが。」
そう言いながら和男は日記帳の上に左手を乗せたが、隠すような仕種になってしまった。それがかえって、彼女の好奇心を誘った。
「まあ、日記だなんて、随分とロマネスクになったのね、読ませて欲しいわ、それが日記帳ね。」
和男は首を左右に振っていやいやの合図を送った。
「そんな女々しい態度は駄目! あたし、貴方のことは何でも知っていたいのよ、こういう乙女心を汲んで欲しいわ。」
そう女ぽくしおらしく言われて、和男は返す言葉もなくなり、それではどこかいいところを選んで、彼女の期待に応えようかと思い、日記帳をめくり、尚美に手渡した。尚美は楽しそうにそのノートを受け取り、読み始めた。


[私は何を語りたいのだろうか? その内的衝動を掴みたい。
 おお、無意識よ今日は。
 つい最近まで私には未来しかなかった、現在は亡かった。過去は、ああ私の過去は暗闇だった。その暗闇の過去が何故か今になって帰って来いと命じるのだ。
私は自己を否定したがっていた。その実現は未来の彼方で達せられるものと信じて。私の内的衝動は決まってそれだった。それは意志と願望と、そして逃亡の分かちがたい結合だった。
そしてそれは、私の内的世界のできごとだった。しかし今、私は、その昔夢見た時空に生きている。だのに暗闇の中に今も在ること、その想いは暗闇の探索を私に強いるのだ。自身を振り返ることは私には、あの無意識の内に暗黒の中に閉じ込めようとする意識を、どうしても打ち破らねばならないという想いに私を逸らせることだ。長い長い沈黙の生活からそれを欲している。あの本当の、目に見えぬ厚い壁に押し込まれた自己の衝動を解放しなければいけない。
暗黒の夜の神、ニュクスの陶酔に乾杯!
おお、意識よ今日は。
私自身を浮き彫りにしたい。過去の空間を目の前に。今の私には、過去を切開することが必要だ。過去を振り返ることが今の私の唯一の快感だから。けれどまだ、私の存在と思考の痕跡を暗闇の中に見出す場所は見つからない。暗闇の中で私の存在は、時間・空間を失っている。そんな全的な暗闇の中で、私の限りある肉体が、私の生きてきた痕跡に場所を与えようともがいている。]



和男は、彼女が自分の日記のその部分を読んでいる間、珈琲にちょっと口をつけた。何とも気恥ずかしく、じっとしていられないためだ。本物以上に酸っぱい味が舌べろから喉を通り抜けて行ったが、すぐにその感覚は亡くなってしまった。普通のブレンドにすれば良かったかなと一瞬思ったが、注文する時は粋がって何かストレートを頼んでみたい気がし、それが再会の記念になる味がする予感がして注文したのだ。確かに記念的味だと彼は思った。こんな気恥ずかしい味がする珈琲は飲んだことがないと思った。
その部分の文章を読み終えると、尚美は他のページには目を通さずに、和男の方へテーブルの上を滑らせて返した。彼は大いなる気恥ずかしさにはにかんでそれを左手に収めた。絵を見せるよりかずっとナイーヴな行為、ある意味で自己投企だなと思った。それだけその内容は、プライベートな心の状態を披露するもののように思えた。
「何か感想はあるかい?」
和男は気恥ずかしさを打ち消すかのようにそう、そおっと小さな声で訊いてみた。声がひゅるひゅると震えるかと思った程緊張していた。
「内的衝動って難しいのね。ところで貴方、貴方の過去はそんなに真っ暗だったの?」
「僕の過去は単に暗いというものじゃあないんだ。内的意識の問題として振り返る時、いつも未来ばかり見ていて、現在の感覚を圧殺していたので暗かったという風に反省されるんだよ。その昔、実際に何を望んでいたのか見定めて、今何を想うべきかを考えたいんだ、解った?」
尚美は怪訝そうに頷いた。
「それじゃあ現在はどうなの、未だに無いの?」
「今はあるさ、こうして感じたことを日記に付けているからね。」
和男は左手に持っていた、中身の紙には線の入っていない、真っ白な紙のノートをめくり、デッサンした尚美の顔のページを広げ、彼女に見せた。
「貴方、デッサンもうまくなったわね、あたしを見ながら描いたんじゃないのに、あたしそっくりだわ。
ところで和男さん、さっきみたいな文章を書く人、少々神経症なんじゃないかしら。神経症の人に多いんですって、過去に執着するのは。あたし心配だわ、美大には同じくらいの年齢の人がたくさんいるでしょうに、友達はいないの? みんなと楽しくすれば現在がより華やかになるでしょうに、神経症に陥らないで済むでしょうに。」
ひょんなところで尚美の母性本能を刺激したものだなと、和男は秘かに喜んだ。それを助長してみたくなった。
「僕はたったの一人きりさ、東京では友達はいないんだ。相当な自閉症に罹っていて孤独に苛まれているんだ。東京に行った途端に無口になってしまってね、たまに他人から声をかけられても要領良く返辞できないんだ。都会の文明度に気後れしてしまうんだ。そんな訳で僕の現在は孤独そのものなんだ。」
少々物寂しげな表情になって尚美を見つめた。
「貴方はどこまでもロマンチックなのね、大都会で独りぽっちだなんて、あたしの顔のデッサンを瞼に浮かぶ想い出を頼りにするなんて、それで寂しい日々の穴埋めにするなんて、何だか可哀想。
でもそれは、この街の孤独さが乗り移ったせいかもね。孤独が貴方の心をよりロマンチックに育てるように作用してるんじゃないかしら。今頃になってそう培われて来た物がはっきり形になって現れてきたのよ。どちらかと言えば、貴方は何とかその自然な筋道に則っているのよ、自然な成り行きかもね。孤独という世界に幽閉されているのよ。」
一種憂愁に満ちた表情で、和男を哀れむかのように見つめた。
「ふむ、君が言うように、この街に育ったことがいつ知れず孤独の種子になって、骨の髄までロマンチックという病になったのかも知れないね。
一千万人もの人々が住んでいる巨大な町で、たったの一人きりになっちまうなんて思ってもみなかったよ、この街から東京に出て行った時にはね。何人かの友達ができるに違いないと期待に胸を膨らませていたのに、あにはからんや孤独と胸の病に冒されるなんて、夢にも思っていなかったよ。」
そう言うと、もっと孤独な表情になりそうな心の裡を知って、和男は腕組みをして、尚美の前で目を閉じた。
「この街はあまりにも小さいものね、あたし達若者にとっては。あたしみたいに釧路で育ったんならまだいいのよね、かなり大きな都市だし、同じぐらいのレヴェルの友達も多く持って育つことができるから、青年になってから自閉症に罹るなんてケースは珍しいのよ。」
彼女の話に一理あると思いつつも、自分が気の病には転げ込んでいないと思わせたく、でも本当のことを喋る練習をして、尚美の母性本能をくすぐってみようかなと、慎重に話した。
 「でも、みんなが見る一人一人が描いた作品で、自分の感性を表出できるから、完全な自閉症にはならないで済むんだ。その点美術学校に行って良かったと思っている、普通の大学に行ったら、僕なんか徹底的に自閉症に罹っていると思うよ。
と言っても、自分の内面の意匠を自由に展開するという授業は少ないので、気儘に自分の感性を表出できるという訳でもないんだ。それに僕は他人と話さないので、自分が抱いている想念がどんな物なのか他人に知られることが少ないんだ。他人がたまに僕の絵を見て、僕の感性を若干察する程度なんだ。僕が喋らないので、なかなか他人の評価を耳にすることができないんだ。
でも、一作終わるごとに合評会があるんだ。そういう時にはごく簡単に自分でも話をしなければならないんだ。でもね、それが堪らなく厭なんだ。馬鹿なことを言うんじゃないかと気になってね。心で思っていることと別のことを口が勝手に喋り出すことがあるしね。それがいつもとても不安なんだ、うまく喋れることが無いものだから。そういう不安が大きくなって、尚喋らなくなっちゃうんだ。君がさっき言ってた対人恐怖症って奴かも知れないね。
それで僕の内的意識は個人的に内向して秘密になっちゃうんだ。内密な秘密がいっぱいできてそれをどう処理したらいいのかで苦労するんだ。秘密ってやつはどこかまわず捌け口を探し回るらしいんだ。それが見つからないと迷路に迷い込んで、出口が見つからない恐怖で気が狂ってしまうんだ。内密性の現象学に取り込められて悩むんだ。それでいつも人が見えるようにと、いつとはなしに僕みたいな無口な人間は、同じように独りで過ごしている人物のそばに一緒にいるようになるんだ、自然に。
お互いたくさんの意匠や秘密を持っているような顔してね、しかもそれらがいかにも大きく濃密な物だって顔してさ。孤独な芸術家志望の青年に相応しい幾つもの幻想を懐に秘めているって風貌で、内面はいかにも豊かだって顔してただそばにいるだけなんだ。話はしないんだ。僕なんか差詰め幻想怪獣ってところかな。
それで自ずと日記なんか書くようになるんだ、日記が喋る相手になるんだ、友達がいない穴埋めにするんだな。ところが又、その日記を付けてるってことや、その内容が又々大きな秘密になるんだよ。
でもこの街に帰ってきて君と会ったら、急に饒舌になったみたいだね、人付き合いもうまくなったような気がするよ。一気に内面にもやもやして隠れていた物が言葉になって飛び出してきたみたいだよ。正に秘密の捌け口が見つかったって調子だね、僕一人で喋りまくっているみたいだね。」
そう言い終わると、彼は再び珈琲にちょっと口をつけた。今度は心地よい味が喉を通って行った。 二年半も東京という名の大砂漠の孤独に生きてきた和男にとって、尚美は精神的オアシスの蜃気楼のような気がした。そう、まだ掴まえていないので、実物を。
和男はまじまじと尚美の躰を見つめた。インディアン服の袖からはみ出している色白の手首や掌、マニキュアも塗っていないほっそりした指の長い爪などを順に見ていった。淡い栗色の髪の毛、長くしなやかで艶やかな髪の毛、和男は尚美のそんな髪の毛が昔から大好きだった。そして同じく淡い栗色の瞳も魅力的だった。
今こうしてじっと見つめていると、目鼻立ちもお化粧していない素肌の頬も、昔より美しく新鮮になっているように感じられた。乙女は男性を愛するようになると美しくなると言われているが、尚美は自分のことを恋しているのだろうかと、彼は想像してみた。こうして彼女の素肌を見るのは実に半年振りのことだった。彼女の肢体はその半年で既に大人の女の域に達したように見受けられた。
「随分美しくなったね、尚美、気を使っているのかい、綺麗になろうって、吐く息までが香しくなったね!」
尚美はあからさまに褒めそやされて頬を赤く染めた。しかし、こう面と向かって言われたことに、ある種の反応を引き起こされた。
「本当にそう思っているの? 女の子みんなにそう言っているんじゃないの? その真顔で! まあいいわ、あたしも女の子だものね。優しく頷くわ。
少しは意識しているわよ、勿論、女ですもの。でも、さっきも言ったように、ママがよく言うのよ、あたしはもう少し綺麗になれる器だって。でも花の盛りは薄命だって。あたし、いつまで綺麗だって人に言われるかしら、あまり自信が無いわ。」
尚美は多少謙遜し、テーブルの上に指で四角形を描きながらそう言い、和男が次に何言うのだろうと待った。しかし彼は、尚美のママの言った台詞を再び無視して黙っていた。只、彼女が今しがた喋っていた声に、以前にも増して充分の女気が感じられるように思え、うっとりと彼女の顔を見やって、彼女が何か言うのを待った。
すると、その柔らかな彼の視線に気付いた尚美は、やおらテーブルの上に図形を描いていた細長い人差し指を一点で止め、和男の黒い瞳を見つめて口を開いた。
「和男さん、そんな風に女の子を見やるものじゃなくてよ、それじゃあまるで女の子の目つきよ!」
尚美には、和男のそんなうっとりと異性を見つめる眼差しが、性倒錯的に感じられたのだ。そう言われて和男は慌てて瞬きして、目を反らした。尚美はおかしそうに和男を眺めながら話し始めた。
「あたしは自分で思うんだけど、あたしはあまり可愛いってタイプじゃあないのよ、残念ながら。可愛い女になるにはまだ未熟なのよ、器用に人の気を引けるタイプじゃあないのよ。」
「それはきっと、君には二人も男の兄弟がいるからじゃないかなあ?」
「そうなのよ、彼奴らかなり横暴で、その向こうを張って立ち回ろうとしたもので、相当男っぽくなっちゃったのよ。」
彼女はいまいましいといった表情で、和男に理解して欲しいといったしおらしい言葉でそう結んだ。
「君の兄弟なら僕も知っているけど、二人とも餓鬼大将だったね。彼らの向こうを張って立ち回れば、相当男っぽくなるだろうね。」
尚美はその通りだという風に目で応えた。尚美にとっても和男との交際は、いつになく女らしく振る舞えるチャンスでもあった。
「東京の美大には女の子も多いけど、僕には一人も友人はいないんだ。でも一人だけいつもそばに椅子を並べる娘がいるよ。といっても彼女も滅多に喋りはしないんだ。というのも彼女はひどい吃(どもり)でね、[ミス・ドモリンド]って呼ばれているんだ、可哀想に。でも根っからの吃音じゃないらしいんだ。基本的には、女性は言語障害に罹りにくいらしいだ。
他の人に話しているのをたまたま小耳に挟んだんだけどね、何でも不眠症に陥ってしまって、睡眠剤を貰って飲むようになったら。急に吃るようになってしまったって言うんだ。でもその薬を飲むのを止めるわけにはいかないんだって、飲まなきゃ眠れないとかで。可哀想に、いつも大きな生欠伸(なまあくび)ばかりしているよ。」
和男はいかにもおかしそうな、それでいて可哀想なといった矛盾する要素を抱えて複雑な面もちでそう言った。
「でも、[ミス・ドモリンド]なんて素敵な呼び名ね、イギリス人みたいだわ。
ところで貴方の渾名は何ていうの?」
[ダンマリーノ]っていうんだ、いつも黙っているもんでね。」
「可哀想に、でもイタリア人みたいな名前ね。」
そう言うと尚美は、少し心配げな表情になって、問い質すかのように尋ねた。
「ところでその、貴方のそばに座るっていう、ミス・ドモリンドとはお話しないの?」
「うん、まだ一度も話したことはないね、会うと軽く目で挨拶するだけなんだ、吾ながら寂しいとは思っているけどね。」
そう言うと和男は、すっかり冷えた酸っぱいモカを一気に飲み干した。すると急に、何となく気怠い感覚が胸を領し始めた。2ヶ月も寝て過ごした直後にしては、長時間喋りまくったせいに違いなかった。顔にも窶れた影が現れ始めていた。もう話は打ち切りにしてベッドに飛び込んで行きたいという欲求が脳裏を占領してしまった。しかしまだ、尚美に話しかけたいという懊悩にも魅力を感じていた。それで暫く尚美を見やっていた。
そして最後に、尚美を間近くから見るのは、一種の陶酔と快感を疲れている和男の五感に伝えるようだと思った。そんな尚美の官能的な美しさを独り占めにして眺めていたかった。しかしもう、これ以上ここにじっと座っていると、何とはなしに咳が喉までこみ上げて来るような気がしてきた。
和男は店内の時計を見やった。もうこの[エルム]に来てから2時間も経っていた。本当に退き時のように思えた。そして再び尚美と近いうちに会いたいという抑えがたい欲求を持っている自分に気がついた。尚美を早いうちに自分だけのものにしてしまいたいという欲望が、心の隅に頭をもたげていることに気がついた。沈黙の隙間を、和男に別れの決意が埋めさせた。
「又近々会えるかい尚美? 今日はもう疲れてしまったんだ、これ以上話していると失神するような気がするんだ、でもいつまでも君と一緒にいたい気もするんだ。」
和男は哀願するような顔で尚美に頼むかのように言った。
「いいわよ、いつでもいいわよ、貴方が阿寒にいる間は最優先するわ、明日でもいいわよ。少しずつ体力が戻るように付き合ってげるわ、その代わり、元気を出してね、ダンマリーノさん。
もうじき釧路に行くバスが出る時間だわ、そろそろターミナルに行かなくっちゃ。そうそう、明日会う時に貴方のデッサンを見せてよ、どんな画風に変わったか知りたいわ、東京で腕を磨いた成果を見せて欲しいわ。」
「ああ、デッサンか、昔に較べたら大分とうまくなったよ、静物画なんてまるで写真を撮ったみたいだって言われたよ。これからはもう少し人間くさい、温かみのある生身の手で描くっていう感じのデッサンにしようと思っているんだ。」
そう言うと和男は席を立ち、レジでお金を払って外に出た。トーテムポールの立っている所まで尚美を送って行った。
和男は鼻歌を口ずさみながら自宅に帰ると、そのまま寝心地のいいベッドに躰を滑り込ませた。結核の療養には眠ることが一番大切なのだ。彼は眠りの神(ヒュプノス)の魔法にかかりたいものだと念じた。彼は、浅いが、しかし久しぶりに尚美と会えたという心地よさから、満ち足りた1時間を眠りに費やした。彼女が、明日でもいいわ、最優先するわと言った言葉が脳裏に焼き付いたかのようだった。恋人とはいいものだなと、彼はその時再確認した。




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