両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  13


 「坊や、阿寒のお店に飾ってあった、何とか言ったわね、そうそう、「アガペーの瞑る時]というような宗教的画題の作品は他に無いの? そういうのがあると、あたしとヘルツが合うのに。プロテスタントにはたくさんのセクトがあってね、それらの言い分の違いを研究するのは、知的快感よ。」
「そうですか、貴女はルター派だとかおっしゃっていましたが、ルター派というのはどういう教義を課すんですか?」
パトロンは暫く考えてから、朴訥(ぼくとつ)として喋りだした。
「ルターの基本的立場は、初期のキリスト教徒のごとく、自分は最後の時代に生きているという硬い信念を持っていることよ。神の世界が出現する直前の時代に生きていると確信しているのよ。
ルターの見解では、資本主義はサターンの支配下にあり、それ故資本主義は必然的に悪魔的であり、その思想の深奥に於いて神に成り代わり、この世の君主として君臨しようとする野心から成り立っているのよ。
悪魔の基本的目標は、資本主義の目標と同じであり、サターン自身を世界の盟主とし、この世の神とすることなのよ。ルターは、資本主義が勢力を増しつつあることは、悪魔がこの世で最後の威力を発揮している兆候であると断じているわ。
つまりサターンはこの資本主義世界の盟主に成り上がっていて、この世界はサターンの館であり庭であり、吾々個々の人間は彼の奴隷であり庭師というわけ。ただし、吾々個人の肉体は囚われの身であっても、吾々の精神はそうではなく、つまりキリスト者の精神はキリストに属し、肉体は悪魔に深々と捕らわれているってところね。
貴方達も労働者になれば、精神と肉体の分裂を味わう羽目に立たされるわよ、今のうちに覚悟しといた方がいいわよ。
ルターは、地獄とは場所ではなく、死の経験であると言うの。彼にとっての悪魔とは、人格化された死のことなんだって。ルターの新しい[十字架の神学]は、人々に、地上の地獄を体験し、そして悦びに満ちた復活を望んで、そのような生を死のうではないかと力説しているわ。
新教徒時代は、生は純粋に死の本能の文化となり、そしてルターは生命を肯定し得ず、唯この生に於ける死を死するのみなのよ。聖なる生は聖なる死というわけ。しかし、こんな世界が長く続くわけがないと思われ、そしてそれ程魔神的な世界から、ルターは悦んで、早いところ奪い去られたいと考えたらしいわ。」
「ルター派というのは、随分控えめな教義に固執するんですね、半分喜びながら生を死のうなんて、常人にはできないことですよ。どうしてサターンの魔神ガンに立ち向かわないのですか?」
そう言うと、パトロンの眼が輝き、時を得たと言わんばかりに喋り始めた。
「そうなのよ、そこであたしは教会に反旗を翻しているのよ、大変なのよ。自分の精神と肉体が分裂しているっていうのは我慢がならないのよ。それに甘んじたままで、自分達の矛盾する生と死を死のうだなんて、それも喜んでなんていうのは多分に逆しまで精神の純粋性に背いているって、教会の牧師さんに話したのよ。
そしたらね、このサターンの支配する現代世界は、金利業や貪欲無しでは、売春や姦通無しでは、そして虚言や殺人や窃盗無しでは、神への冒涜と、ありとあらゆる形式の罪無しでは、活発な進歩はあり得ないと言うの。
そんな社会であっても、カエサルのものはカエサルにというのがモットーであり、現実の支配者であるサターンのものも同じく、サターンのものにと言うだけなのよ。
ルターの主義は、二つの認識の上に成立しているんだって。すなわち、この世界は悪魔と死の本能の支配下にあるということと、キリストの復活によって生に於ける死の支配を終わらせ、神の栄光を招来するであろうという、宗教的確信とから成り立っているんだって。
 あたしは、サターンの支配するこの社会を乗り越えること、それがプチブルの責任だと思うのよ。」
彼女の話を聞いているうちに、自分とも少しは関連が出てきたなと和男は思った。
「さっき、僕が申し上げた死の衝動と少しは関係があるみたいですね。」
「あんたの死の衝動ってどんなものなの?」
「それは多分に、芸術的陶酔故の死の衝動なのです。自己陶酔というものは、高まった芸術的陶酔の極みの高みから、死の深淵へ墜ちて行きたいという衝動なのです。芸術的陶酔と死の衝動は背中合わせなんだと思います。頂点まで続く芸術的思想性は、清らかな自殺の衝動を内に孕んでくるものだという気がします。きっとルターも自分の教義の完成に、その衝動が付随的に派生することを感じていたんだろうと、、、」
「なんだそんなレヴェルか、あんたはまだ若過ぎるわ。でもあんた、少しは基督教的傾向があるようだから、どうかしらね、あたしの行ってる教会に顔を出してみない、考える参考になるし。」 自分のパトロンになってくれるという彼女には、教会の牧師さんに敬虔に耳を傾けるのが妥当なような気がした。自身が彼女の旗下に入るのは、彼女のためにもならないように思われた。
「僕には基督教のような一神教よりも、ギリシャ・ローマの多神教の方が性に合っているんです。」
パトロンは、無理には誘わないという目つきで会話を一旦中止にして、珈琲の残りに口をつけた。彼女は一息入れた。


「ところで山本君、あんたお金が欲しいの、それで何買うの? スカート? ブラウス?それにお化粧道具? かなり倒錯しているらしい貴方ならやりそうなことだわ。とても似合いそうよ。買いたいならあたしが買ってあげてもいいわよ。男が買うのは恥ずかしいでしょう。G A Y 大の坊や達はスカート穿いて授業受けているそうよ。貴方のウェストは何センチ?」
和男は恥ずかしげに笑った。何と言ったらいいか解らなかった。でも応えた。
 「ハイ、63センチ。」
 「そうでしょう、とても細いものね、ぎゅっと締まっている娘の平均値よ、それは。じゃあ、バストとヒップは?」
 「ええと、92センチと103かな。」
 「へえ、凄い尻でかね、ブラウスはLLサイズね、ブラジャーを着けると。合いそうなのを送ってあげるわ。画家にはお似合いよ。
今12月の20日でしょう、半月前に従業員にボーナスを支給したんで現金が不足しているのよ。だから悪いんだけど、内の工場で生産している装置を持っていかないこと。」
和男は本当はお金が欲しかったのだが、彼女はもう決めてしまったかのようにそう言うと、デスクに置いてあったパソコンにCD−R O Mを入れ、起動し、機械の幾つかを映し出した。何かうまいことまるめられてしまったなと、和男は思った。喉元から口の中まで乾いてねばねばし、言葉も出なかったが、漸く、呂律の回らない、声とは言い難い発音で要求を出した。女物の衣類の話などしたためだ。
 パトロンは、この手の男には女性用衣類の世話をすると言えば、いとも容易く柔順に反応させることができるのだと知っていたのだ。まんまと作戦に乗ってしまったのだ、和男は。パトロンは勿論、和男に女性用の衣類やお化粧道具を買って送るなんてことは考えていない。
「は、はい、できることなら、DVD付きのパソコンが欲しいです、それなら、自分が描いた絵も管理できるし、、、」
彼女は暫く考えてから、パソコンで、和男のニーズに適う製品があるかどうか探し始めた。
「そうね、これなら合いそうね。ノート型PCで、スピーカーも小型のが付いていて、A4サイズで映像も音楽も録再できて便利よ。卸値で11万円よ、お買い得なのが玉に傷かしら、この場合は。」
そう言って、パトロンはオッホッホと笑った。和男は、自分のニーズに合う製品があることで、充分満足した。
「あんたはまだ学生だから、1号いくらという画家のランキングには入ってないんでしょう。2作で11万円相当の品物が入手できるんだから充分でしょう、奮発したつもりよ、クラスメイトにも自慢できるわよ。宅急便で送ってあげるは、時間指定で。
ところで坊や、コンピューターはどんどん小さくなり、それに反比例して能力は強大になってきてるわ。人間の知の欲求は、意識している自身の知覚に探りを入れ、その構造を確認する方向へと向かっているわ。思考のプロセスを解読しようとしているのよ。その構造が解明されれば、自身で思考するコンピューターが製作され、その機械が、何人もの人間がかかって思考する物事を短時間のうちに解決するようになるわ。
更に人間とは別種の、高度な知能を有する生物をさえ生み出すようになるのよ。そんな機械人間は、自分達の子孫を創りだし、感性さえもパトスさえも持つようになるだろうと推量されるわ、怖ろしい時代が目の前に迫っているんだわ。」
「うむ、奇怪人間か。奇怪人間が大手を振って歩き出すのも間近というわけですか、並の人間では追い付かないでしょうね。しかし、美女コンも出現するでしょう、サドコンもマゾコンも、魔女コンも。」
 そう和男は独り言のように小さな声で言った。
彼女は軽く頷いて席を立った。長かった面会はやっと終わったのだ。
玄関で襟巻きを手にした和男はふと気がついて、胸のポケットから、ちょっと大きめのペンダントを一つ掴みだし、彼女にプレゼントした。絵を買ってくれたらプレゼントしようと思っていたのだ。
「これは何の木で創るの?」
「エリマキです。」
「又冗談言って、これ本当はインチキって言うんだろう、内はエレキ屋よ、馬鹿におしでないよ、この嘘つき! 気違い! トカゲ野郎!」
 と、パトロンは勢いよく和男を追い出した。 和男はカラカラと笑って外に出た。帰る道々彼は、自分の絵が初めて商品になったのだという快感に胸をわくわくさせていた。
そして、パトロンも相当なナルシシズムに沈んでいるように思われた。強がり言っていたが、手下がいなければ何も自分ではできないらしいなと思えた。




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