両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第一章 再出発   -2- 変身の予感


 過去は、香り高い樹精への昂まりを待っている。高貴な る発掘者の出現を期待している。繊細なる盗掘者の眼差し を待ち望んでいる。未来への憧憬に満ちて。その微弱な思 念は、より解像度を上げるための論理化を待っている。透 徹した眼差しに照射される時を待機させている。
 又過去は、自身への思いやりに充ちた扱いを受ける。そ して、予期せざる何事かの自然発生的出来事の母体であり、 当然の結果を招く発生の原基形態であり、メタモルフォシ スの起点でもある。
 一方過去は、反省意識の中核である。改悛の情の泉であ る。尽きることのない無限の悔やみの宝庫である。悩みの 冷凍室である。病める精神の因子である。いつ発芽するか も知れぬ罪の意識の種子ともなる。そうならぬよう、いく ら現在を注視していても。このようにも、過去は滋味深い ものである。
 ユリカにとっても然りである。新たなアイデンティティ ーを獲得すべく、過去の分裂せる主体を清算しなければな らない。清算するには一旦、再生する作業が必要だ。考古 学的解析の手法が不可欠だ。そうすることによって、永遠 の真理を手に入れるきっかけともなる。
 自身がどれだけの永遠の束を持っているかを知るのは楽 しい。まだ色褪せぬ過去の瞬間の束を解きほぐしに行きた い。永遠に嫌われる瞬間(モメントゥム)もあるだろうが。 そのような、過去の呪いの的で飾りになるよりも、未来の 希望の萌芽になりたい一心で。
 過去は、勝手にというわけにはいかないが、いくらか変 容可能なものだ。とは言っても、無意識のうちに現在の基 礎を築いている過去もある。それに気付くこともある。 レイとして過ごしてきた固い石(ラピス)の重みを少し でも柔らかく軽くしなければ、これからも悪夢にうなされ ることは必定だ。そっと、解きほぐす以外に方法は無い。 時間が親しい友となることを願って。
 固さと時間と変容、これらに立ち向かおう。そして重い 石を軽く転がす努力をしよう。過去の魔の一瞥に縛り付け られているユリカの性を救うために。意志の力では動かせ ない石もあるが。石娘(うまずめ)の嘆きのように。冷気に閉じ込めら れたカノジョの石の霊なる身体(ソーマ)よ。
 それを溶解すべく幾度も行われた祈祷と秘儀。その色彩 蒼き残影の反逆。カノジョは性的反逆者だった、その想い 出新たな過去に於いて。今、変貌の礎石を据えつつある。 そのための過去への執着。
 想いを文体に変換すること。ワタシの回想の中に自らを 映して、ワタシがワタシであった全ての時を再現したい。 そうすれば少しは、石の固さに染められた心臓の鼓動も、 石の呼吸も軽やかになるだろう。
 過去に於いて思いついて書いた文章に、現在的反省や、 新たなる言説を組み込むということは、誰もがする所作だ。 そうすることによって、過去に於いては不十分だったもの も、より充実したものになる。つまり、内に密になるのだ。 より豊かな精神になる。
だからこそ、その時々に思いつき発想した事柄を記録し ておくのは有意義なのだ。正確な過去保持ということに、 何か価値があるだろうか? 確かにある、現在からの捉え 返しの元素材として。しかし、唯単に過去の言説そのまま の想起が正しいものではないということも、明らかだ。間 違えということもあるし。
 価値ある過去の出来事の断片は、現在からの捉え返しを 待っている。より豊かな完成のために。それだけの弾力を 持っていると同時に、魅力的な隙間を持っている、埋めら れるために、真実に。
 その他、過去には標本的性格がある。コレクションなの だ、夢想の。そのヴァリエーションは広い程面白い。考古 学の材料として重要だ。個人的歴史学に開花すべき素材の 研究対象になる。個性溢れる自身のアルケオロジーだ。イ ストワールのもう一方の側面たる物語性をも色濃く有して いる。
 過去に於いて築き上げてきた言葉や想念の改築や補修。 それに要した眼差しの現在的不協和音と変調と軋轢。欲望 と刷新意欲の耳目による再発見。そのような視角のもと、 過去は多重的ヒューレー(質量)を有している。厚みがあ るのだ。無意識の裡に素描された概念の鮮明化・充実化の、 重要なメタファーである。


 ワタシの過去は、今考えると隙間だらけだ。何ごとかに 熱中していたとしても。感性的にも思惟的にも。しかし、 それに気付く反省的契機がいつ訪れるか定かでない。ワタ シの場合、幾多のコムプレックスの発掘により、考古学的 に見出される過去の諸実態(ノエシス)の解明と、認識 (ノウシス)が必要だったし、現にある程度なされ、昇華 へと結実したものもある。
 それは多分に、性的意識が形造る諸心象の被視形象化へ の努力にかかっていた。つまり、無意識の裡に模索された 諸心象の実体化であり、その意味に沿って形成される諸契 機の統括のもと、内に密になり、更に透明になることを望 み、その上で得られる諸考察の無垢なる、あくなき形象の 獲得の希いだった。
 そのような行為の中で、総括を加えることは極めて有意 義なことだった。拾いこぼしていた側面が不意に浮かび上 がってくる。不足していた言葉や陰影が、隙間を埋めてく れる。すると、感性的にも躍動感が増す。思惟的には、よ り解像度が上がる。すると現在が充実する。 このようにも過去とは、現在に於いて、若干変容可能な ものだ。ということは、時間というものも変容可能なもの に違いない。過去は、空疎な空間的要素にも孕まれた時だ。 現在からの捉え返しにより密度濃く絡まれてゆく。そうい う契機があるからこそ、人間は進歩する。
 視野は徐々に開け、明るくなってゆく。過去の誤りは払 拭され、改善される。現在は、未来のための試金石だ、よ り高度な思考の卵だ。現在は、一種の瞬間の束である。
 「瞬間は時間のアトムではなく、永遠のアトムである」と 言ったのは、キエルケゴールだ。つまり人間は、無数の永 遠に編まれていることになる。
 瞬間を永遠化する努力のうちに、素描された心的意匠を 現前化し、記憶化可能にするという、無常の喜びと悲しみ が現れる。それは一種の芸術的所作である。裡なる閃きを 形象化し、他者化する行為である。対象化された心的物象 である。それが完成された時人は皆、聖なるカリス(恵み) を受ける。そして束の間の永遠に、オウ ルヴォワール (さようなら)。


 現在とは、見えているようでいて、全てを見ているわけ ではない。目にしているものでさえ、記憶に残らないもの もある。生起する視聴覚映像は人によって異なるが、知覚 されるものと、されないものがある、本人の志向の如何に 拘わらず。
 ところが、後になって、まるで見えていなかった筈の現 在なるものが見えてくることもあるようだ。記憶化されて いなかった事象が、何かの表紙で記憶として浮かび上がっ てくるのだ。どういう想起作用によるのかよく解らないが。
 例えば、玲維に生ける現在は無かった。埋葬すべき現在 があった。現実に対応出来なかった。又、現実は見えなか った。埋葬すべき、本人の仮面を被った躯があった。現実 を見ているのは隠れた本人だった。決して表に出てはなら ない本人だった。自己は匿れていなければならなかった。 それ故、本当の現実は匿されていた。欲望も隠されていた。 見てはいけない夢を見ていた。悪夢を見ていた。現実は歪 んでいた。
 レイの本性はユリカだった。その本性を顕せなかった。 本当の自分でないレイなる仮面時空に生きていた。虚構世 界を形造っていた。レイには記憶能力も無かった。ユリカ によって弁別され、レイのものとして遺っていった。レイ の思考は、ユリカのファンタスマであり、イマーゴだった。 その歴史がレイの実態を織りなしていた。
 そこで必然的に、紡ぎ出される言説は、歪められたユリ カの記憶なのだ。そしてそれは、ユリカを病魔的認識 (グノウシス)、(宗教の言葉である「グノーシス」とは異 なる、英語の単語)、へと引きずり込もうとする、他者の 意志に抗するものでもあった。病気になっても不思議では なかった。
 レイは主役ではあったが、演じているのは別の人格だっ た。ユリカが二重人格パラノイアに罹ってもおかしくはな かった。際どかった。自分のアイデンティティーを確立し てゆく年頃だった人間が、別のマスクをあてがわれていた のだから。
 ユリカは非現実感に襲われていた。そのせいで、ユリカ にも自分の現在を確認出来ない時期があった。離人症にな りかけていた。内面から剥離している表面、そういう表層 自身が、主人公になろうと振る舞う時、ユリカは完全に自 己を喪失する予感を抱いた。
 レイとは仮面であり、オトコとは仮象だった。そのよう に表面を固められたユリカは、心の弾力を奪われかけてい た。表面に神経があるのかさえ疑わしかった。他人に無神 経だと思われる程、生身の感受性は圧し去られていた。  それをワタシの鏡は見逃しはしなかった。分裂質に震え ているガイストだった。ワタシは自分の魂を正視すること が出来ない悲しみに沈んでいた。仮面の眼差しに戦く哀れ な造花だった。
 しかし、仮面を剥ぐということは、素顔を見ることとは 違うようだ。仮面を被ろうとしている意識を覗くことであ る。つまり、仮面を剥いだからといって、即、内面を見れ るわけではない。
 仮面は無理矢理剥いでも、大したことは解らないものだ。 ユリカの被っていた、レイという仮面を剥奪しても、ユリ カの心の裡を察するのは難しい。そういう過去を解析する のは、これからのユリカの課題のようだ。そういうユリカ に匿されていた、見えなかった過去が、今想起されてくる ような気がする。
 このようなことを今朝、ユリカは考えていた。今、その 仮面を脱いで、造花に活ける生気を籠もらせねばならない。 花瓶から抜け出して、本物の花粉を振りまかねばならない。





N E X T
・アンドロギュヌスの肖像 U・ ∴目次
 1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴
 4章 ∴





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni