アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱
第一章 再出発 -3- 新しいパパ
午前十時ちょっと過ぎ、伯父である若宮要三が、ご自慢
のF S X を運転して、里中家の門前に駐め、チャイムを鳴
らした。母が出迎え、応接室に通した。父と楽し気に話を
交わし始めた。今五十五のこの画家は、G大の洋画科を卒
業して以来、師匠につくことも、弟子を取ることもせず、
唯一人、どこのエコールにも属さず、独りで黙々と自分の
道を追求してきたという、珍しい画家だ。
独りが好きなのか、生涯独身の覚悟で過ごしてきたが、
昨年、同じく独身で、阿寒湖畔にアトリエを構えていた彫
刻家の兄を飛行機事故で失い、身寄りがいなくなってしま
い、それ以来、寂しさに取りつかれていた。
彼は、阿寒湖畔の兄の屋敷を相続したが、別に、サロマ
湖畔にも別荘を建てて所有していた。その写真を持参して、
父や母に、オホーツクの海や緑為す草原、放牧されている
馬、そこら中に天然に生い茂る原生花園の美しい景観など
を見せていた。
ユリカも幼い頃からこの伯父を見知っていた。時折里中
家を訪れ、父と、ドイツのユーゲントシュティールの画家
達の話をしていたので。
その伯父が今年の夏、ユリカがフランスに出かける前、
里中家を訪れ、玲維が性別変更手続きを済ませると同時に、
自分の養女になって欲しいのだがと、話をもちかけてきた。
それを両親は、ユリカには、フランスから帰るまで黙って
いた。どうするべきか考えていたのだ。我が家においてお
くべきかどうか。
しかしじきに決心が着いた。我が家にいては女らしさを
発揮出来ないように思える。それはあまりに可哀想だ。そ
れよりか、独身の伯父のもとに出し、女らしさを身に着け
させ、磨いて、努力させた方がユリカのためになるような
気がする。その方がよいと両親は決断した。
この伯父は、父の従兄弟に当たる人物で、父とはよく付
き合っている仲で、時折里中家にも来る。ユリカの父であ
る樹希が付き合える、ほんの少しのうちに入る人物であり、
親類として認められる唯一の人間だ。他の親類は、理由あ
って、付き合うのを止めざるを得なくなっていた。
伯父は、玲維が小学生の頃、女の子として生きていたこ
とを知っている。その後、男子として生活していた間、玲
維を温かく見守ってくれた唯一の人だ。そんなわけで、こ
の伯父の養女になることを、ユリカは即刻同意した。
男として過ごさせた玲維が、女のユリカになるという、
世間体の悪い人物がおり、他の子供達の妨げになること必
至と心配していた折り、伯父がユリカを引き取ってくれる
という話に、両親は乗り気だった。
その話に、ユリカが何の躊躇もなく同意した。両親は半
ばしめしめと思った。まだ幼いのだ、両親の扱いに何の抵
抗もしないとは、いや、出来る筈がないのだと、両親は思
っている。
ユリカは自室で、いよいよ伯父が迎えに来たわ、今日初
めて自他共に女の子として対し得る、父親になる人に会う
のだから、思い切り赤ちゃんぶりを披露しようと思った。
「ボン ジュール、 オンクル ヨウゾウ! ジュ マペール ユリカ ワカミヤ!」 (今日は、要三伯父さん! 私、若宮ユリカともうします!)
と、まず挨拶し、ユリカはミニのフレアーのワンピース
の裾を翻してクルクルと回った。可愛い下着に包まれた股
間やお尻を覗かせて。
伯父は優しげな目に満面の笑みを湛えてユリカを見てい
た。
「宜しく、随分美しくなったね。」
と一言声をかけた。
「だって、伯父さんの娘ですもの!」
ユリカは微笑んで応じた。
「可愛いことを言いおって、まるで幼子のようだ。」
伯父はユリカの反応に満足気に顎を左手で撫でると立ち
上がり、ユリカと頬を摺り合わせた。
「あたし、赤ちゃんなの! うっふふ!」
と愛嬌を振りまきながらユリカは、スカートの前を捲っ
て顔を覆い、セクシーに皺を作っているズロースの股間を
正面から見せつけ、腰を数度捩り、やおら降ろすと、恥じ
らいに顔を真っ赤にして、ソファーにお尻から沈んだ。
里中樹希がコクンコクンと頷いていた。
「食べちゃいたいぐらいに可愛い、いい子だ。」
伯父は股間を見せつけられて、何て可愛い、本当の娘の
ようだと思い、心から大喜びだった。雌カモシカを想わせ
る腰から下のプロポーションを見て取った。
あまりに気恥ずかしいことをしたユリカは、俯いて涙を
こぼしてしまった。
「ユリカや、新しいお父さんにうんと甘えるといいわ、
今までの父さんは悪過ぎたもの。」
初めて母が口を挟んだ。
「宜しくお願いします、お父さん!」
タイミング良く、ユリカは涙でいっぱいの顔を上げ、要
三を見つめて挨拶した。ユリカは、この人が父なら、羞恥
心を見せずに女の子として振る舞える気がした。
「こんなに可愛いユリカを見たのは初めてですわ、あた
し。ユリカが生まれてすぐの頃を想い出しますわ。それも
みな伯父さんの人徳のお陰ですわ、一目でユリカが娘心を
披露しえたんですもの。あたしの少女時代よりも初々しい
わ、今朝のユリカは。育ててきた甲斐があるというもので
すわ。」
母は自慢気にそう言った。
いやいや、要三さん、ユリカは心の底から初な娘ですよ、
今二十四ですが、まだ十二、三の乙女心っていうところで
すから、一つ、手塩にかけて育てて下さい。お兄さんなら
出来ますよ、こうして、もう懐いているじゃないですか。
樹希が妻に負けじと、ユリカを売り込んだ。
「それにしても見事なプロポーションをしていますな、
ユリカさんは。脚線の美しさは賞賛に値する。勿論顔も知
的でいて温和でいながらセンシティヴで、しかも美しい。
三拍子揃っているとはこのことですな。家に閉じ込めてお
くのは勿体ない、外に出て皆に鑑賞されてこそ価値も高ま
る器ですな。そのためなら努力を惜しまないつもりです。」
話しているうちに、未来に不安を抱いていたユリカは、
段々と生きることの悦びを感じられるようになっていった。
今まで里中家で、玲維としての男存在の牢獄で、足枷を嵌
められていたのが、スーッとほどけてゆく際の官能の昂ま
りに喘ぐかのようだった。
「ユリカさんの趣味は何ですか?」
「オーディオ装置を作ることです、設計も製作も出来ま
すのよ。」
「 ほう、女の子にしては珍しいですね。それでは、我
が家の楽所(がくそ)を司って貰えませんか。私も音楽は
大好きでしてね。ステレオ装置のいい奴を欲しいと思って
いたところで、丁度いい。」
「さっそく好きなことでお役に立てるのは、とても嬉し
いですわ。」
ユリカが首を傾げてはにかんで応えた。
ユリカと、両親と、伯父という四人による面談は、ユリ
カの愛嬌の良さのお陰で、この家にしては珍しく、和やか
な雰囲気のうちに進み、アイス珈琲を飲み終えた。ユリカ
が愛嬌を振りまいたのは初めてのことだ、この家では。
「それじゃあ、お二方、吾々はこれから親子水入らずで
ちょっとドライヴに出かけますから、そのまま我が家へ。
明日の晩、内でパーティーをしましょう、是非いらして下
さい、きっとユリカさんが料理の腕をふるってくれるでし
ょう、楽しみにしいます。」
ユリカは、二度とこの家の敷居は跨がないんだわと固く
決心すると共に、胸がジーンと熱くなるのを覚えた。
里中家は文京区の小日向の住宅街にあるが、伯父の家は
板橋区の下赤塚なので、そう遠くはない。
伯父はクーラーとカセットをオンにした。
「素敵な車ですのね、スーパーカーって言うんでしょう、
これ。」
伯父はにこやかに頷くと、ハンドブレーキを外し、発進
させる前に、訊いた。
「ユリカさんは免許持っているのかい?」
ユリカは首を横に振った。取りたいとは思っていたが、
近々性別を変更するつもりでいたので、その後でと考えて
いた。
「これからよ、万事。」
ユリカは、目を輝かせて力強くそう、パパの目を見つめ
て言った。
「そうそうその心意気でな、ユリカ!」
と、初めてパパはユリカを、唯「ユリカ」と呼んだ。
「ハイ、パパ、資金はお願いね。」
ユリカも初めて伯父を「パパ」と呼んで、早速甘えた。
パパは口元を緩めて、
「勿論だよ、ユリカ、じゃあちょっとドライヴに行こう。」
パパは車を発進させた。音羽通りにからじきに首都高速
五号線に乗り、一気に加速した。スピードメーターは百五
十キロを指していたが、車は実に静かで、しかも軽い走り
だった。何か宙を飛んでいるかの感があった。
首都高をアッという間に走り抜けると、一般道へ降り、
向きを変え、一路若宮家へと向かった。とても外見の美し
いドライヴインで軽い昼食を取った。
ガレージ前に着くと、パパは、パネルの端のボタンを押
した。すると、ガレージの扉が自動的に開き、内部の灯り
も点いた。そのまま中に入った。勿論屋根も着いている。
優に二台入れられるスペースだ。パパは再びボタンを押し
た。ガレージが閉まった。
二人は車を降り、ガレージの奥の右側の戸のノブを回し
て開けて庭に出た。パパのアトリエの大きなガラス戸を鍵
で開けて、家の中に入った。そのガラス窓から庭に出入り
し易いように、丁度いい高さの大きな平たい石が敷かれて
いる。
内部から改めて庭を見やると、芝生、松や杉や檜、サル
スベリ、ツツジやモミジ、薔薇や馬酔木(あしび)、栗や
柿、藤棚、海棠、桜や棕櫚などが植わっていて、庭園のよ
うな感じでよく手入れされている。眺め甲斐のある庭でび
っくりした。四方は石塀だった。広さにして約百八十坪く
らいか。
「もう、栗が落ちているよ、食べられるのが。廊下のそ
こに拾って集めてあるんだ、毎朝探している、結構楽しい
もんだ。自分のうちで取れる果実は特別味わい深い気がす
るよ。あの柿も秋になれば食べられる。」
パパが楽しそうに栗の木や柿ノ木を指差して言った。玄
関は北側に面していて、庭は南側と東側に連なっている。
家の間取りについては、数日前に図面を見て、大体解っ
ている。木造のしっかりした建物だ。パパはユリカを連れ
て、家の中を一通り案内して見せた。畳みの部屋はなく、
板張りの床だ。しかし、勿論、靴は脱いで上がる。二階に
も部屋が三つあり、それらをユリカが使える。パパは一階
の、アトリエの隣の寝室で寝起きする。
玄関のチャイムは二階にも付いているので、ユリカにも
分かる。二階にもトイレがある。電話機は一階に据え置き
のがある。子機も二つあり、二階に一つ置くことになった。
その他、携帯電話が一つ。
ユリカは、二階の東南に面した六畳の部屋に、大きな本
棚、ステレオ装置、デスクにパソコン、AV機器などを入
れた書斎にし、真ん中の六畳にセミダブルのベッドと洋服
箪笥、それに作りつけの押し入れに布団類を入れる。そこ
に裁縫をするデスクを置く。もう一部屋は空き部屋にして
あるが、未来の夫の部屋にするつもりで残すつもりだ。そ
の部屋は八畳もある。各部屋にはベランダも付いているの
で、洗濯物を干すにも便利だ。
二階にもガスや水道も配管されていて、料理も作れるよ
うに、簡単な台所になっているスペースがあるので、夜中
に何か食べるのに好都合だ。食器棚も冷蔵庫もある。流し
もあるので、そこで顔を洗うことも出来る。三面鏡も付い
ている。
何か、こんな豪勢な暮らしになるなんて、感覚的にしっ
くりこないが、慣れるだろうかと心配してしまう程だ。こ
れまでの生活が、狭苦しかったためか、急に三部屋に一人
というゆとりある空間の生活に、びくつく思いがするのを
禁じ得なかった。心にスカスカとすきま風が入るのではな
いかと感じられた。
しかし建物の作りは極めて緻密で、部屋を閉めるとすき
ま風は全然入らない。窓ガラスも二重なので、外の音もほ
とんど聞こえない有り様だ。パパの話によると、雨風の音
も聞こえないそう。外部世界と隔絶される感があるのは、
女になったばかりのユリカが、世間との交流を思う上には
適しているかなと思えるが。暫くは、この密室で潜んでい
たいと思った。
ユリカには、何か宮殿のようだと感じられた。心のゆと
りとは異なる空間の広さというものがあるのだと、ユリカ
は内心思ったが、パパにはその不安を口にしなかった。今
のユリカには、世間という広い空間がちょっと怖ろしい対
象だが、そこに溶け込むためには、まずは小さな世界を対
象化して行くのが好ましいと思えるからだ。それしか出来
ないし。
そういう彼女には、このスペースの広さが、不安だ。そ
れは貧乏性ではないが、気を大きく持てないというのが現
在的事実だ。
彼女の女としての生活を始めるに際して、このスペース
の広さが、自分の心の狭い時空にそぐわないのだ。だから
といって、狭ければいいというわけでもない。広い方が便
利に決まっているが、まだ世界が出来ていない自分にとっ
ては、広すぎる世界は極めて不安を身に引き寄せてしまう
のだ。初めから大きな世界が身に備わっているわけではな
いということを、彼女は痛いほど感じた。
自分の世界が出来ていないと感じる彼女にとって、世界
の広さは、自分を孤絶した世界に閉じ込めるように思える
のと、この家での自分のスペースの広さが、自分のミクロ
志向の現在に反抗するので、怖ろしいと感じさせるのだ。
アイデンティティーというものは、小さく狭い空間からま
ずは形成されて行くということなのだろうと、彼女は思っ
た。それはジェンダー以前の問題であるとも。
この自分を囲んでいる広いスペースに、しかし孤絶した
自分の小さな内的世界に、外部の広過ぎる不明の人間性が
忍び込んでくるような気がする。入ってくるものを阻止するのは難しい、それらには接してみることが肝心だろうとユリカは思った。
しかしここで暮らすのだから、ここでワタシは自分のア
イデンティティーを獲得して行く努力を始めるのだと、決
意しなければならないと意識に、自己の生きようとする意
志が芽生えてくるのを感じた。世間の広さに出る前に、こ
のスペースの広さの中で、自分のごく小さい世界を少しず
つ開いて行こうと、彼女は決心した。早くもそういう問題
に掴まえられたことにびっくりした。まずはこの宮殿に溶
解することよと。
そう考えながら、ユリカはまず、今日から寝る部屋のベ
ッドや、寝装具店からもう送られてきている布団などを、
パパに手伝って貰って、整えた。その他のものは、既に二
階に運び込まれているので、衣類や書籍などを納めて、今
日はお終いにした。それでももう三時だった。
ダイニングキッチンで、黒ラベルで乾杯した。パパの話
によると、三年前まで、離れに母が住んでいたそうで、亡
くなった後、この大きな建物に一人で暮らしていたため、
あまり手入れしてなく、ユリカが養女になって来てくれる
ことが決まってから、急遽大掃除したのだと、笑って話し
てくれた。 二階の部屋には蜘蛛が巣を張っていたとのこ
とだが、その痕跡は無かった。とても足の長い蜘蛛だった
そうだ。多分それは、女郎蜘蛛だろうとユリカは想像した。
そういうのを飼ってみたいと思ったが、黙っていた。
ビールを二杯飲むと、ユリカは尿意を強く催した。パパ
はもう一本と言うので、ユリカは立って、足を擦り合わせ
て、やっと堪えてよろよろと冷蔵庫まで歩いて行き、瓶を
一本取りだして戻り、栓を抜き、パパのグラスに注いだ。
そのよろよろする足取りをパパは見ていた。
「あたし、もう駄目。」
ユリカは膝を組みかえて堪えて叫ぶように言った。
「どうしたユリカ、たったの二杯で酔ってしまったか?
ユリカは生まれて初めて覚えた、男の人にお漏らしする
ところを見られたいという、ニンフォマニアックな欲望を
やっとのことで股間で、ギュッと堪えた。
「ちょっと失礼します。」
と言って席を立つと、一階のトイレに小走りで駆け込ん
だ。急いでコルセットの三本のベルトを解きにかかったが、
間に合わなかった。ズロースがおしっこで膨らんでいった。
ユリカは便座に座り込んだ。お漏らししつつ、女である自
分を感じた。見られたいという衝動はどうして生じるのか
しらと、その時ふと思った。
フランスで、松尾と抱き合った時には感じなかった、も
ぎたての新感覚の、魅力ある、欲望というか症状とと言う
べきか迷うものだった。彼の腕の中で、まだワタシは自覚
せる完成した女ではなかったようだと思った。
この、初めて心の裡に捉えられたエロスを、ユリカはお
漏らししつつ噛みしめた。ワタシの欲望は、見られること
によって満たされたいのかしら? と感覚的に思った。ユ
リカはコルセットのベルトを締め直して、トイレを出て、
パパのところに戻った。しかし、椅子に座らなかった。
「間に合ったかい?」
パパがにっこりしてユリカのスカートの裾を見やった。
思わずユリカは、ドレスの前を捲って、濡れそぼっている
ズロースの股間を見せ、続けて後ろを向き、腰から上を前
に曲げて、お尻を見せた。
「そうだ、上品な見せ方だ。」
何者かの声がしたように思った。滴が足の内側を伝わっ
ていた。パパは立ち上がり、ユリカをバスルームに案内し、
このシステムの使い方を教えた。ユリカは体を洗いながら、
自分を見せつけたいという欲求が募っていくのを抑えるの
は、どうして我慢の領域に入るのかしら? と不思議に思
った。
欲望と症状と理性が、今の自分のエロスの心に同居して
いるようだと実感した。躰を拭くと、スッポンポンのまま
二階へ上がった。それをパパがびっくりして見やっていた。
普段着に着替えると、ユリカは、デスクに向かい、急に女
になった珍しい人物の心理描写をすべく、日記帳に思うま
まに記した。このようなことにより、より豊かな人間性が
身に着いてゆくように思われた。
そして玲維として過ごしてきた頃の隠れたる、ユリカと
いう女の本性、それは自他共に隠蔽されていたものだがを、
解剖し、女として取り戻さなくてはと思った。
4時頃急に大雨になったが、一時間ほどで上がった。ユ
リカは台所に降り、夕飯の支度に取りかかった。初めて手
にする料理器具を気にしながら。
オニオンスープに玉葱のマリネと、今日は玉葱攻めでい
こうと思った。サーモンの薄切りをマリネに添えた。電気
炊飯器は六時にセットした。お米は秋田小町だ。ユリカの
好きな銘柄だ。
鶏肉も人参も美味しそうに、スープの中で転がっている。
サニーレタスをお皿に盛りつけた。キャベツも刻んだ。固
いサラミを切った。鶏肉のそぼろとインゲン豆を茹でたの
を揃え、ワカメとキュウリの酢の物も出来上がった。ご飯
も保温になった。初めて一コース作ったにしては上出来だ
わと思った。パパは野菜が好きだから丁度いいだろうと思
った。
「お父さん、夕御飯よ!」
と、大きな声で呼んだ。パパはアトリエから笑顔でやっ
てきて、自分の箸を取った。それをユリカは覚えた。
「明日の晩パーティーだから、今日は軽くしよう。」
そう言うと、パパは冷蔵庫からティオペぺを取りだし、
「これは今夜のために特別に用意しておいたものなんだ、
一人が二人になる記念にな、私の心が二人になったんだ、
今日から、本当だよ、良く解るんだ、そのことが、ユリカ
にも解るだろう?」
ユリカは良く解らなかったが、こくりと頷いた。
「私の孤独過ぎた青春に、お前が赤ちゃんとして産声を
あげた日だ、今日は、本当に有り難うと言いたい。私は今、
娘を懐胎した青春の揺籃期を確かに味わっている、素晴ら
しい陶酔に浸っている。私のこの胸に、お前は美しく咲い
ている。
そう言うとパパは、自分のワイングラスに小量注いだテ
ィオペぺを一嘗めし、
「これはいい、お前も少しぐらいならいいだろう。」
ワタシもとても孤独でした、今まで、心の裡を打ち明け
られる人はいませんでしたもの。その心に確かに貴方が現
れました。一人が二人になったような気がしますわ。
パパはにこにこと数度頷き、
「二人になった者どうしのお祝いのしるしに乾杯。」
二人はグラスをカチッと合わせた。辛口だが美味しかっ
た。ユリカは、自分には二人の人物が同居しているのは明
らかだが、それに新たにパパの心が加わったのだとは言え
なかった。
「心が豊かになったような気がしますわ。」
パパがにこにこした。この伯父の心の中に、アタシが
心地よい余韻となって住み着いたらしいということに、ユ
リカは初めて気付き、今日の自分の振る舞いはあれで良か
ったのだと思った。
「親子水入らずだ、今夜は、これも初めてだ、私には。
ユリカのお漏らしは格別可愛かったよ、まるで本当の赤ち
ゃんを演じてくれた、とても嬉しい。お前ほど優雅な娘に
は初めてお目にかかった、よく弁えているな、立場を。お
陰で私も急に本当の大人になれたように思う。皆、お前の
女らしさの発露の賜だ。いつの間に身に着けたんだい、娘
らしさを? あの里中家でよくもまあ素敵に育ったものだ、
不思議だ。」
「あの家で身に着けたのではありません、外の世界でで
す。あの家は性的地獄でした。」
「そうだろう。他の若者と付き合ってもいいんだよ、女
らしさをいよいよ磨くためにね。それを見守るのは私には
楽しみだ。恋をすると、娘は吐く息まで香しくなるという
からな。その手助けならいくらでもするから、安心しなさ
い。お前は、私にはかけがえのない宝物だ。今日のユリカ
の心温まる振る舞いは何にも代え難い、心の籠もったもの
あということが身に染みる。
料理も上手だ、今晩のは上出来だ、とても美味しい。つ
いでにお前を食べちゃいたいくらいだ。」
二人は、互いの目を見つめ合って笑った。
「赤ちゃんになり切れたことを幸福に思います。これか
らは娘として躾けて下さい、きっと努力しますわ。そうす
ることは里中家では固く禁じられていましたから、かなり
ドジを踏むだろうと思います。」
ふむふむとパパは頷いた。心地よさのうちに夕飯を終え、
緑茶を入れてゆっくり飲んだ。
「明日はうんと可愛く装って、里中家の面々をびっくり
させるといい。今まで男らしくさせようとしたことを、深
く後悔させてやろう。見せつけてやるといい、初な女らし
さを。そうしてくれれば私の鼻も高くなる。さあ、この一
杯で、養女となった初夜の最後の儀式にしよう。」
パパはそう言って、再びユリカとグラスを合わせた。こ
の酒は一度栓を開けると、その日のうちに飲まないと味が
落ちるからと言って、パパは、食事が終わると、グラスと
一緒に手にして、アトリエに入って行った。ユリカは後片
づけを済ませ、自分の書斎のデスクの三面鏡に見入り、再
び瞑想に耽った。
顔は、複雑さと優しさと固さの混じった、今までお目に
かかったことのないものだった。それだけ、今日のユリカ
は緊張しているということのようだった。
「又別人になってゆくわ、アナタは何者?」
ユリカは毎日のように変わるこの数日の自分の顔に不安
を抱いた。まだ玲維として生きてきた、つい先日までの悪
夢から逃げ切れていないように思えたが、明日の自分を想
像することも出来ないようだった。
『男と女の性世界を織りなすモザイク模様を、一つの肉体
に取り込んでいるワタシは、必然的に複雑な神経組織を発
達させてきた。性染色体はXXとXYのモザイクに生まれ
た。悪夢の二組の二重螺旋の渦巻きがワタシの頭脳に、男
と女の両側面を這うように描き上げる。
片方を削れないのであれば、一層のこと、この両性性に
磨きをかけるしかないのかしら、今まで以上に。それを自
由に出来る館に時空をこしらえてみようかしら、徹底的
に。』
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