アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱
第二章 北海道にて -2- サロマ湖畔にて
サロマ湖畔の別荘は、阿寒のより狭いが、敷地は同じぐ
らいだ。パパはここでは、風景画を描いてみたいといい、
毎日外に出て、外光派の画家に変身した。若葉色に萌える
大草原と、まだ残っている雪景色と、放れ駒の栗毛色のや
白い馬、一斉に咲き誇る菫や浜茄子といった動植物を取り
入れて描いていた。
ここにはモヨロ人種の遺跡がある。そこで黒曜石が出る
というので、ユリカは面白半分にシャベルで掘ってみたら、
一つ見つけたので、記念に拾った。
そうしているユリカに、ここら辺にしてはセンスのいい
服装の、一見してインテリだと解る青年が話しかけてきた。
ここの、T大の研究所の所長として、今年の四月から赴任
してきたのだそうだ。
ユリカの碧い目と、ブロンドの髪がここいらの風景の中
で、一際美しいと露骨に褒めるのだ。まるでヨーロッパに
いるような気がすると。長くここに滞在するのなら、是非
お付き合い願いたいと、初対面から申し込まれた。
自分は左遷され、流刑にされて、自分の学問とはまるで
縁のないここへ送り込まれ、学問するにもまるで手だてが
無く、専ら、お偉方が散策にきて泊まる時にサーヴィスさ
せられるだけで、それも夏休みだけだという。数年棒に振
って、どこかの私大の助教授になれるのを期待して、それ
まで唯耐える以外になく、極めて面白くないと、グチをこ
ぼす。
「パルレ ヴー フランセ?」 (フランス語話す? 貴方。)
「オウ、ウイ、メ アンプー、ビアン アンタンデュ。」 ( ええ、でも少し、勿論。)
青年はにこやかに応え、
「エトゥヴ フランセーズ?」 (フランス人ですか?)
と訊き返した。ユリカは首を横に振り、
「日本人よ。」
と応えて、少し考えた。ここに流刑にされるのはどんな
人間かしらと。
「エトゥヴ コミュニスト?」 (貴方、共産主義者?)
そう、そっと訊いてみた。
「ええ、そうです。N同の党員です。それがばれてここ
に流されたんです。」
「馬鹿とキチガイの徒党ね。」
冷たくユリカは言った。
「いえ、一番人間的な党ですよ。」
「独裁が? 政権は銃口から生まれるが? テロリスト
とどこが違うのよ?」
「吾々は基本的に、議会制民主主義を旗印にしていまし
てね、独裁とか、武力革命とは縁がないんですよ。日本人
は田子作人種ですからね。平和が好きですから、それを助
長してゆくのが基本姿勢ですよ。」
「N同は西欧の共産党の真似をするかのように、プロレ
タリア独裁の看板を降ろしたけど、猿真似がお好きなよう
ね。そして、委員長の個人治支配はやめないじゃないの、
党内に民主主義がないくせに、社会には民主主義を通すな
んて言うのは、人民を馬鹿にし過ぎの大嘘つきよ。ペテン
師の集団ね。
「それはことの必然性であり、人民の意志とでも言うべ
きものですよ、何しろ宮本さん程優れて偉い人は日本に他
にいないんですから。」
「そういうデタラメなことは言うものじゃなくてよ、ボ
ンボン。そういうの個人崇拝の基礎的理屈じゃないの。あ
なた達の絶対者じゃないの。権力を批判する人達が、実は
自分達の権力者だけは権力主義者ではないという錯覚とい
うか、矛盾に犯されている。
それは宗教的、心情的信条の邪宗の徒とどこも変わらな
いわ。ゆくゆくは自分が絶対者に成り上がるんだと、権力
のヒエラルキーの頂上から人民に睨みを利かす日を、心密
かに抱いて念じている。みっともないわね、理屈も人間性
も低劣で。
そして、あなた達は貧乏人を凄く大事にして、世界中貧
乏にしないと、自分達は安泰でないという現実を、人民に
知られないように、隠匿物のような物にして世間を騙すの
が、長年の夢と策略なのよ。人民を田子作呼ばわりしつつ、
そこから進歩しないことを密かに念じている、最低の人格
の政治家達よ。田子作は政治に口を挟むなとね。
宮本ほど偉い人はいないんだから、吾々もその独裁に絶
対服従しているという、専制君主なんだから、人民にもそ
うさせるのが当たり前だと、あなた達はいつも考えている
が、今の段階では、人民にそんなことは言えないという、
お粗末な意識、宮本は、鬼畜マンシップを発揮する大嘘つ
きよ。何やってるのよ、あんた達は、下劣の極みよ。偽り
のマニフェストを振りかざす輩ね。
党内民主主義はクレチン病だってさ。そんな病気に罹り
たくないだって、この薄馬鹿野郎。それを口にした時から
あんた達はクレチン病に罹ったのよ、マルクスもね。真理
は、一切妥協しないところから生まれるものよ、いい加減
にデタラメなペルソナとはさよならすることね。党内民主
主義を否定する輩がどうして、世間に対しては民主主義を
吹聴するのか、デタラメも極まれりだぜ。
それに気付いたのは英雄ゴルバチョフよ。共産党を解散
したというのは、世界史に遺る快挙よ、これこそ必然的に
求められていたことよ。それを為した偉大なる政治家よ。
貴方達に残された唯一の道は、共産主義撲滅運動を始める
ことよ。
デタラメな主義主張を白日の下明らかにし、政治の場か
ら静かに消え失せることのみが、あなた達の心を慰めるで
しょう。最後に正しいことを為したとね。あなた達は心密
かに抱いている筈よ、自己矛盾に対する不満をね。永遠の
自己欺瞞の徒よ、共産主義者って。
そういう時代になってもまだ、目が醒めず、N同の党員
だなんて、あんた、これからはどこの私大だって雇ってく
れないわよ、万年助手のままでいたいならやるがいいわ、
姑息なことを。」
青年は何か言いたげに口をもごもごさせて、目を白黒さ
せて聞いていた。ユリカは、用事があるので、さよならし
た。青年は、万年助手で終わるという言葉が気になって仕
方なかった。
次の日の午後1時半頃、この青年がユリカ達の別荘を訪
れ、ユリカを外に誘い出し、話の糸口を探っているようだ
った。
「貴女のお父さんは何処の国の生まれ?」
「父は純日本人、母も。」
「ええっ、それじゃあ貴女、突然変異ですか? その目
と髪は。」
彼は、彼女の母の不倫の恋の果実のような気がしたが、
勿論それは黙っていた。
「ええ、そうよ、突然変異。」
ユリカは微笑んで冗談で応じた。
「へえ、何か宇宙人みたいですね。」
「ええ、本当はね。あたし、白鳥座から地球まで二十五
年かけて飛んできたのよ。」
からかうように言った。
「白鳥座といえばブラックホールだ、確か。」
ユリカは頷き、
「白鳥に乗ってきたら、こんな躰になっちゃったの、あ
たし。」
「おお、やはり変身なすったわけですね、フランス人に。
地球の居心地はいかがですか、住みいいですか?」
「とてもいいわ、あたしには。だってあたしは、白鳥座
を追放されて宇宙を彷徨ってきたんですもの、安心して住
める星に降りれて本当に嬉しいわ。」
「僕も宇宙に彷徨いだしたくなりましたよ、美人に変身
して。こんな流刑地から抜け出せるものなら。どうです、
私にその、貴女を運んできたという白鳥を、貸してくれま
せんか?」
「だったら、貴方、自分の本当の夢の古里に帰りなさい
よ。白鳥は夢の古里でいつでも、誰でも待ってるわよ。」
ユリカは柔和に微笑んだ。
「僕は権力の黒烏に乗せられてこの研究所に追放されてき
たんですよ。お互い追放された者同士、仲良くしましょう
よ。」
「だったら、N同から抜けることね、それが最も可能性
のある道ね、T大の本拠地に帰れるかもしれなくてよ。
アタシは自分に相応しいヨーロッパに飛んでいくのよ、
白鳥に乗って。アタシの名前はリーズルっていうのよ。」
「おお、私の新しき夢、リーズル、是非僕を青い目のフ
ランス人にして下さい。フラ行きさんになりたいですよ。
是非一度、白鳥の乗り心地を経験したいですよ。
それが可能なら共産主義なんておさらばですよ。黒烏な
んてくたばってしまうがいいんだ、悪魔(サターン)の翼
ですよ。」
彼は、サターンの陰のように、両手を広げて形を作った。
「貴方は自ら悪魔の虜になったんですから、そう簡単に
は白鳥の待つ夢の古里には帰れないことよ、フランス語を
喋れるぐらいではね。その悪夢のアクセルを踏むか、方向
を変えるか、即刻分別をつけることね。黒烏はN同の鳥よ、
腹黒い権力奪取に血道をあげる黒悪夢の徒よ。」
彼は力無く肩を落として、ぼやくように、
「どうすりゃいいのか?」
「貴方の専門は?」
「今のところ、メロヴィング朝のフランスの仮面ですよ。」
彼は少し得意そうに言った。
「ああ、フランク族第一の王朝ね、その次はカロリンジ
アンじゃなかったかしら。」
「おお、さすがフランス人、良く知っている。そういう
こと知ってる人、この辺にはいないんですよ。びっくりし
た。」
青年は、今度は目を輝かせてユリカに少し詰め寄って話
した。よく表情の変わる、又動作の大きい日本人だなと、
ユリカ昨日から気になっている。
「仮面なら、『カルナヴァル』で良く使われたんじゃない。」
「そうです、さすが本物のフランス人、言葉もよく知っ
ている、『謝肉祭』ですよ。」
「ドイツでは、『ファスナハト』って言うのよ。」
「おお、ドイツ語も知っている。ヨーロッパ人はやはり
違う、こんなところでそういうこと知ってる人と出会える
とは幸運だ、運が向いてきたみたいだ。」
「ドイツ語はドドイツくらいね。」
「そいつは楽しいや。」
「おフランスに行きたいの、坊や。」
「勿論。」
「ベドゥーアンとかいう仮面の学者がいるわね。」
「ほう、そこまで知っているとは益々驚きだ。随分詳し
いんですね。」
「いえいえ、ちょっとだけよ。『仮面の解釈学』って、坂
部恵っていう人の本とか、『エピステーメー』の(仮面)の
号なら買って読んだわ。]
「そりゃあ凄いや、インテリもいいところだ。ひょっと
して貴女も仮面の専門家?」
「アタシは日本の仮面に興味があるのよ。
ところで坊や、フランスに行きたいのなら、N同から抜
けたという証を上司達に示すことね。」
「ええっ、それじゃあ悪い意味で別の腹黒い自家製の黒
烏に乗り換えるみたいで、気が退けるなあ、やっぱ白鳥が
いいや。」
「じゃあ、心の底から変身することを真剣に模索すべき
よ。差し当たっては、白烏に変身するとか。貴方の一生が
かかっているのよ、世間のダニで終わるのか、一流の学者
になるのかの。」
決心を迫るかのようにユリカがじりじりと詰め寄った。
そして、青年の手を取って、別荘のダイニングに連れ込み、
紅茶を入れて飲んだ。外は寒かったので。
「ところで、どうして貴女は白鳥座を追放されたんです?」
青年はさも興味ありげな顔付きで、気負い立って訊いた。
「アナーキズムの罪に問われたの、帝国主義権力に、禁
固十年の刑に、それで脱獄して逃げてきたの、自由の国を
求めて、宇宙をあちこち巡り回って。」
「アナーキズムというのは、哲学の貧困だってマルクス
は言っていますよ。」
「いいえ、永遠の真理です、人間精神の究極の世界です。
いつの時代にも人間が思い描く理想郷のことですから、い
ずれそういう社会になるでしょう。ヘーゲルを逆立ちさせ
ただけで哲学を理解したつもりになっているマルクスこそ、
貧困の哲学です。それを真に受けた馬鹿共は、全世界を精
神的にも物質的にも、貧困に落とし込まなければ気が済ま
なくなったということを、もっと厳しく自戒すべきです。
貴方も、貧困が好きだというのなら、今のままでいるの
がいいでしょうが、耐えられるかどうか。あんたの体型は
正にブルジョワ下がりのブルンペンだもんね。
こんなところにいれば、薬にも毒にもならない、単なる
社会から孤絶した無能なる、役立たずで一生を終えること
になるのよ。都会の学者を、ブルジョワ的だと叫んだとこ
ろで、誰も相手にしてはくれないわよ。
自分の学問が進まないからと言って、進んだ学問を非難
するのは、何ら科学とも縁のないうつけ者の悲鳴として片
づけられるだけだよ、可哀想に。分別つけな、ええ、坊や、
今がチャンスだろう。ここでダダをこねればそれでおしま
いさ、いっちょあがりと、世間は喜ぶだけさ、陰険なボン
ボンが叩き落とされたとね。
もう少し言うとね、マルクス主義というのは、人民の名
において人民を非人間化する統制機関をを必要条件とする
組織のことよ。それでもまだまだ十分条件とまではいかな
い、つまり、支配される人民の悲鳴が聞こえてこなくては
我慢できないという、主観的快楽を必要とするのよ。自ら
のペルソナの前に、全人民を拝跪させる快楽、皇帝陛下の
満足感、それを望むことなのよ、共産主義者というものは。
まさに生ける偶像崇拝だね。どの面下げて人間主義だい、
聞いて呆れるね。あまり馬鹿にするな、人民を。」
ユリカは一気にまくしたてるように言い、ストーヴに手
をかざした。そして尚も、
「エエッ、何ですって、アタシも逆立ちするタイプです
って、三半規管の倒錯に罹らないように、せいぜい気をつ
けなって。
アタシはイズムは卒業よ、政治家も大嫌いになったけど。
逆立ちは大好きよ。アタシの三半規管は倒錯が大好きでね、
特に眩暈が大のお気に入りなのよ。貴方はあたしのそんな
感官を喜ばせることは出来そうにないわ、たわいない次元
に留まっているボンクラよ。性倒錯って、『パラフィリア』
って言うのよ、覚えておきな。
自分で自分の仮面を剥げないでどうするの。貴方の学問
の血液型はガッタガタのようね。さあ、とっとと消えて頂
戴!」
ユリカはドアーを開けて、青年を追い出した。
「貴女、僕のこと馬鹿にしているんじゃないですか?」
「当たり前よ、こんなところに左遷させられるような餓
鬼に興味ないもの。」
そう言って、ドアーを閉めた。青年がそれを押し戻して、
顔を出して、白い歯を剥き出して叫んだ。
「ちきしょう、覚えてろ、このアマ!」
「やった!」
とユリカは小躍りした。
「アタシは婆だからね、それぐらいの罵声は悦びの勲章
もんだよ、いっひっひ。解るかい、オトウダイ君。」
ユリカは楽しそうにドアーを、今度は勢い良く閉めた。
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