両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第四章  奇蹟への道   -2-  性のパラドクス


 その日の夕飯後、早田の父親が若宮家を訪れた。来た時 ユリカは、怒鳴りに来たのかと思って見ていたら、あには からんや、鄭重に頭を下げたので、まずびっくりした。ひ とまず応接室に通した。
 子供を交えて今日、早田がユリカと会ったら、早田に明 るさが出てきた。理由はともあれ、いい兆候なので、是非 時々会ってやって欲しい。そうでないと息子は気が狂うか も知れない。その寸前のようだと言う。
 このゴリラに、早田の症状が解っていたとは思いもかけ なかった。人間の感受性の機微を察していたとは思わなか った。しかし嬉しいことだった。尚も父親は続けるのだっ た。
 ユリカに二ヶ月前に言われたことは一々ごもっとも、や っと今日それが解った。息子のペルソナを無下に足蹴にし てきたのは、自分の過ちだった。
 息子はどんどん自閉的になり、非有機的様相を呈してき 始めていた。感受性さえ失いかけていた。危うい。ユリカ と今日逢っていなかったら、今夜にでも発狂していたかも 知れない。
 しかし、自分達にはどうやって話したらいいか、見当も つかない。経験したこともないし、想像だにできない世界 なもんで。
 ユリカなら相手ができる。今日それがはっきり解った。 これから是非時々会ってやって欲しい。以前の非礼は心か ら詫びるからと。
 時々夕食をしに来て欲しい、ユリカのパパも一緒に。と いうのも、今でも孫は、ユリカのぱぱのことを「お爺ちゃ ん」と呼んでいるのだそうで。愛情のある人間だというこ とが良く解った、是非二人揃って来て下さいと。
 そう頼んで引き取って行った。今が息子の最大の危機で あり、転機でもあると察した早田の父親は、再び頭を下げ に来た、次の晩。
 佳織を男の世界だけに閉じ込めようとしたのは、自分の 間違えだった。自分達には何もできない、クレームをつけ る以外。どう対処したらいいのかさえ解らない。正直言っ て今でも解らない。
 唯、はっきり解ったのは、佳織が立ち直るのは、男の世 界でではないということ。それにはユリカの助けが必要だ ということで、自分勝手な言い分だが、逢ってやってくれ るだけでいい、孫を交えてと、父親はひたすら頼むという 表情だった。
 自分達夫婦が乗り込むのが早過ぎた、もう一二年間をお いて入れば良かったのかも知れない。しかし、あのマンシ ョンは立地条件も良く、入居の応募も自分達が最後とあっ て、つまり時間的に余裕が無くて、仕方なかった。それに 息子があんな状態になるなんて、思いもかけなかったもの だから。
 自分達は、性について無知蒙昧だった。通り一遍の知識 しか持っていなかった。別の世界があるとは知らなかった。 それに気付くのが遅かった。
 佳織は、自分達とは異次元の性の人間なのに、通常の性 の獄に繋がれている。その鎖を解き、自由にしてやるしか ない。それ以外に息子が助かる見込みはない。
 自分は昔から高圧エレキ型の人間だった。柔らかな感受 性の持ち合わせがなかった。そんな父親の下で、佳織は柔 らかなものに憧れたのだろう。それが募って女になりたく なってしまったのだろう。これも吾々の家族関係の為せる 業としか言いようがない。これからは、柔らかく接してい きたい。
 ところが彼奴は、自分達と接触するのを殊更避けるばか り。同じマンションに住むようになって、初めの一週間は、 自分の娘に食事を取らすことを考えてか、一緒に食べたが、 それっきり、彼奴は外食で済ますようになってしまった。 自分達が顔を合わせる都度、早く男に戻れと、口うるさく 要求したためなんだが。
 孫は寂しがるばかりで、自分達には懐いてくれない。そ れが昨日、ユリカと逢って、みんなで軽食を食べたら、そ れが孫にはとても嬉しかったようで、帰って来てからはし ゃいで、パパとママと一緒になれたって、それは大変な喜 びようで。
 そしたら佳織の奴まで明るくなりおって、娘とトランプ などして、珍しく親子らしく振る舞ったりして、一緒に夕 飯を食べました。
 ところが今夜は又一人で外食なんで。塞ぎ込んでさっき 帰ってきました。塞ぎ込んだ女装した男なんて見るに耐え ない、そう思いませんか。これも勝手な言い分かも知れな いが。
 鬱病に罹りかけている。親としては見るにみかねている。 もう少し明るい健康を心がけて欲しい。そのためなら、彼 奴の倒錯には目を瞑ってもいい。
 父親はそこで深い溜息をついた。
 明るくなれるものなら、女装してもいいと言ってやりた いが、話を聞こうともしない。乳房まで膨らんでしまった 人間に、普通の男のスーツは似合わないということは、良 く解った。
 ユリカとなら気兼ねなく話が出来る段階に留まっている らしい。頼みの綱はユリカだけだ。そんなわけでお願いに あがった次第すと、父親は、懸命な表情で懇願した。
 何とかして、彼奴に生きる目標を持たせてやりたい。学 問に励んで貰いたい。子供をまともに育てて欲しい、とま あ、いろいろと欲求があるんです。
 どうか、自分達を交えて、ユリカとお爺ちゃんと早田と 子供を、一緒の食卓に着かせてやって欲しい。そうすれば、 自分達のカレに対する態度の変化を見せてやれるし、是非 お願いしたい。それが出来るのはあなた方しかいない。是 非お願いしたい、すぐにでも。
 「欲を言えば限りがありませんな。」
 要三が徐に口を挟んだ。
 「それは百も承知です、唯、時々、いやしばしば、吾ら のマンションで食事を召し上がって戴きたいと。それだけ で、佳織にも孫にも効果があります。
 私達夫婦だけだと、孫は食欲が湧かないらしい、父親が 心配で。孫は親思いのいい子なんだが、私達がいくらご馳 走をこさえても懐いてくれない。私達もげっそりです。
 可哀想に、あんな躰になってしまった佳織には友達がい ない、ユリカさん以外には。何か言いたいことがあっても いい筈なんだが、吾々には話さない、一人で悩んでいる。 何を考えているのか見当もつかない。
 「それは、佳織さんが内気だったためだけではありませ ん。貴方方が内向的なカレの心に土足で踏み込んでしまっ たためです。息をするのもやっとの気分だろうと思います。
 『バリヤーが効かない』と、昨日言ってました。ひとまず 距離を置くことが肝要かと思います。焦って接触しようと しても逆効果だと思います。暫く、カレを放任するべきで す。その方が恢復する早道だと思います。
 あたしにも、カレの性意識の非一般性の責任があります から、何かお役に立てれば幸いです。一週間に三四度、カ レと一緒に食事を共にするのはいい方法かと思います。或 いは私達の家でも。お子さんが元気にはしゃげば、早田君 も自ずと明るくなると思います。
 明るくなれば、自ずと自我が表出し、分裂質な自閉的状 態から免れると思います。子供は宝と申します。お子さん を元気にさせるのが妙法かと心得ます。さすれば、カレに も生きる張り合いが出来ると思います。」
 「そこなんですよユリカさん、子供が毎日寂しげな顔を している、息子はもっと憂鬱な顔をしている、生ける骸と 化そうとしている。
 なのに何もしてやれない、日に日にその度合いを深めて いく。虚ろな眼差しをしている。今日、初めてそれに気付 きました。魂が失せた目つきになっている、とても直視で きない、見てられない。」
 「あなた達はカレを見ない方がいいと思います、当分は、 敢えて。同じ建物に住んでいるというだけでも、カレには 重荷でしょうが、しょっちゅう顔を合わせるよりかましで しょう。
 今までのように、一々干渉されれば、カレの生身の官能 は死んでしまうでしょう。官能が生きるか死ぬか、今がそ の瀬戸際だと思います。お医者さんごっこは一番危険です。
 カレを独立させるのが第一だと思います。カレ、そう決 心してこのこの内から出て行ったんですから。それが、独 立しようとした途端に、あなた方が土足でカレの心を踏み にじってしまった、最悪のケースです。
 はっきり言って、あなた方と一緒に暮らすより、この家 に住む方が、ずっとましだと思います。カレはここでなら 立ち直るきっかけを掴めるだろうと思います。独立しよう という意志だけで十分ではありませんか、それはこの内に いても可能な筈です。あたしはいつでもカレが、再びこの 家に来るのを待っています。
 カレの心を理解したいというあなた達の決心は、大進歩 ですが、カレがあたしと喋ることをお聞きになれば、もっ と良くカレの心を理解出来ると思います。あたしと付き合 えるなら、カレが狂気に陥らないよう、いろいろと工夫出 来る自信があります。
 ひとまず明日、あたしとパパがカレのマンションに行き ます。晩御飯を作ります、カレのダイニングキッチンで。 明日は日曜日ですから、午後から行けば、カレが逃げ出さ ない前に会え、一緒に夕食を食べられると思います。あな た方は顔を出さないで下さいませんか。一週間に四日ぐら い、そういう日を設けるのが早道だと思います。
 自分の居城ですら、自分の思うままに暮らせないでは、 憂鬱になるのは当たり前です。何とかしてカレに、自分の 時空を形造らせるよう配慮すべきです。そのためには、あ なた方が当分近寄らないことは必要です。残酷かとは思い ますが、カレが被ってきた残酷さに較べれば微々たるもの でしょう。
 自立できれば、あなた方と対話出来るようになると思い ます。そうなるよりも、あなた方は、カレを頭から押さえ 込もうとなさった。
 それではカレの意識は表出出来ず、内部で肥大するだけ です。それではカレは、あなた方と絶縁するしか生きられ る時空はなかった。
 このままでは、あなた方と完全に断絶するようになるの は目に見えています。それを考えて下さい。あなた方から 離れることによって、カレとあなた方は心が繋がるのです。 自立しようとしたカレを、そのようにしてあげることがお 互いの心の絆というものではないでしょうか。そうするこ とによって、自然なバリヤーが効くんだと思います。
 ワタシも、パパの養女になってから、漸く性的に自立で き、両親に胸の裡を打ち明けることが出来ました。
 そうすることにより、じきに反省的契機が訪れるもので はないでしょうか。あなた方は、カレに強いショックを与 え、カレは反省し、自立しなければと思った。それはカレ にとって幸いだったと思います。
 ここは一つ、カレの人生の分岐点と思って、ライオンが 我が子を逞しくするために、谷底に突き落とす気構えで、 干渉するのを止めて下さい。そうすればカレ、対人関係も スムーズになると思います。息子さんを思いやる心は解り ますが、今のカレには、それは悪魔とも思しき病原菌なの です。」
 「ユリカさんの言うこと、今では良く解る。あの時、息 子が女になってしまって、気が動転して、前後の見境もな く乗り込んでしまった、失敗でした。暫く放っておきまし ょう。しかし今の彼奴には、自立し得る経済力がないんで す、それだけは援助してやらないと。」
 「それはそうですな。佳織君もそれは受けてくれるでし ょう。しかし、我が家で暮らせば、その心配は御無用です ぞ。日本の学者の給料は不当に低いですからな。」
 パパがそう言ってくれた。
 「今子ちゃんもあたしに懐いているようなので、内で一 緒に暮らすのが一番かと思います。
 そして何よりも、カレに自分の欲求を現実化し得る空間 を持たせてあげるのが肝心だと思います。」
 フームという表情で父親は聞いていた。最早そうする以 外に、息子の精神はなりようがないように思える。最近、 アメリカに大勢いるという、s h e m a l e になってしまっ たのだ。そういう肉体の写真を発表して欲しくないが、彼 奴の現実は認めざるを得ない。
 「そうですか、そういう欲望抜きに生きてゆけないので あれば、吾々が口を出すのはよしてみましょう。しかし考 えてみれば、大学を卒業してからまで、親にこうしろああ しろと指図されるのは、確かに我慢のならぬことでしょう なあ。」
 ユリカもパパも頷いた。
 「しかし早田さん、現実世界の普通の親は、皆あなた達 のような人なんですから、佳織君も当然味わうべき現実を 経験したのだと思えば、後々カレの人間形成に役立つでし ょう、もし現在の危機を乗り切れれば。
 佳織君の美意識は理性的かも知れませんな。いわゆるゲ イボーイのようには、女々しい気味の悪い愛嬌は振り播き ませんな。彼奴らは見るに耐えないが、まるで猿真似のよ うで。その点佳織君は醒めているようですな。自分の躰で 実現出来る美を心得ているようだ。
 通常人は、カレのような人物を性的異常者だとか、逸脱 するエロスだの、パラフィリア(性倒錯)だのと、羞恥の 眼で見るようだが、貴方もそのようだが、そういう時代で はなくなりましたな。男を男にくくりつけなければならな い理由はありませんな。
 脱男性化とか脱女性化の時代などと世間では言っておる ようだが、その本質は、脱ジェンダー化ではないかと、私 は思っている。特に佳織君を見てそう思ったんだが、別に ちっともおかしなことではありませんな、当然のごとく人 間の裡に存在する性意識ですよ。
 その脱ジェンダーの現実性をどこまで実践出来るか、佳 織君に科されたモチーフでしょう。そういう見地でご覧に なってもいいんじゃないですか。内面的には、性というも のは別の、いくつものイメージを持っているんです。その 内面に合わせて外面を擬装しようとする。つまり、いわゆ る性的逸脱ですな。
 しかし、外面というものはそれ固有のもので、逸脱する ものではない。別に見えるわけではない。そこに、見る方 と見られる方の意識は一致しないという現実が牙を剥き、 内面と外面を巡って揺れ惑うことになる。
 そこには、安定しない性意識が悶える土壌があるという、 この世の現実原則が敷かれているのですよ。それは佳織君 の土壌ですな。
 つまり、脱男性化即女性化というわけではないのであり、 外面的には男か女であり、別の性というのは外面的には存 在しないのです。それで紛らわしい人物がいて目立つんで すな。あいつは男だろうか、女だろうかと。そのどちらか でないと、不安なのですな、多分、自他共に。
 そして、性というのは内的意識にあっては二者択一では ないのです。そういうことが有り得るのですな。これは一 種のパラドックスですが複雑ですな。その主体を生きてい るのでしょう、佳織君は。非常に難しい世界だと思います よ。それで思い悩むのですよ、意識の底深く。」
 さすが現代の文化人といった印象の深い言説を、パパは 口にした。ユリカもなるほどと思った。新境地が切り開か れたような気がした。早田の心に吹き込むべき言葉だと思 った。パパが性についてこんなに冴えた見識を持っている とは知らなかった。
 「ゴキブリに変身するよりか益しですよ。」
 パパが冗談めかしく言うと、早田の父は苦笑いして頷い た。





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 4章 ∴





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