両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第二章  北海道にて   -3-  イデオロギーと仮面


 ところが次の日の午前中、彼から電話がかかってきて、 お昼を一緒にしませんかと誘うので、面白半分にユリカは 承諾し、パパにカレーライスを作って用意し、自分は青年 の研究所の食堂に赴いた。
 行くと、玄関で彼は目を輝かせてジャンプし、喜色満面 になった。よっぽど嬉しいらしい。彼はこの研究所の所長 で、建物の管理をしているのは地元の老人夫婦で、彼以外 には学者はおらず、知的対話に疎くて悲しいのだという。
 自分が馬鹿者だと思わされるような人物はここいらには おらず、正直言ってリーズルにはびっくりしたという。カ レイのムニエルを食べながら、彼はそう告白した。サロマ 湖はオホーツクと繋がっていて、海の幸が釣れ、主にカレ イが漁れるそう。
 ここいらに大学があるわけもなく、学者が住むようなと ころでもない、可哀想だと思える。
 「僕、今日の朝、N同に脱党届けを出してきました、エ アメールを出しに、ジープで常呂の郵便局まで行ったんで す。
 考えてみると、東欧圏は最も非民主的な国々でした。そ こで彼らの盟主ソビエットロシアの誘導で、民主化革命が 起きたのは、当然かも知れませんね。そういう前の時代の 東欧圏の真似をしようなんて、とんでもない間違いだった と思いました。」
 「気が付かされたとは運がいいわね、運が向いてきたの かもね。N同ってものの哀れだわね、何もしないで老衰し て痴呆症に罹って死んでしまうんですものね。マルクス・ レーニン主義は痴呆症だったのよ、歴史的事実としてね。 クレチンは正しかったというところよ!
 ところで、貴方は何を為してきたか判って? 反動的に 振る舞ってきただけよ。それから抜け出るだけでは褒めら れないわ。欲したことは何一つしなかったという人間性に 疑義を抱いたことがあって? それは反人間的なことよ。 それが貴方の若々しさ? 貴方の青春て凄く欺瞞的ね。逃 げ出すだけのようね。」
 青年はグーッと喉がつかえたようだった。
 「悪の苑に居続けるよりはいいんじゃないですか?」
 「それは問題外の当たり前よ。N同はもうじき、共産主 義撲滅運動を始めるでしょうが、負け犬の背走する姿はみ っともないものね。「前衛」だなんて未だに威張っている のは、彼らをより徹底的に惨めにするでしょう、確かに。 でも貴方は、その前に為すべきことがあるわ、自分が犯し てきた罪業を清めるという。」
 「僕は腐っても鯛のつもりですから、世のためになるこ とをしたいと思っています、これから。そのためには、こ んな片田舎でくすぶっていてはいけない、東京に戻って、 研究を通じて人々の役にたちたいんです。それが僕の青春 のような気がします。
 貴女に会えて、やっと悪夢の古里から脱出出来そうな気 がするんです。白鳥に乗ってね。本当の夢の古里に帰れそ うな気がするんです。昨夜、夢で見ました、白鳥に跨って 空を飛んでいる自分の姿を。
 共産主義などどうでもいいと、昨日の会話で悟りました。 本当、目が醒めました。それも皆、貴女のお陰です、感謝 しています。」
 この人基本的に楽天的な上、無責任だと思った。
 「貴方、柔弱な精神のようね、それは女の特権よ、男に はみっともないだけよ。そう簡単にマスカ(仮面)を被り 換えられるものかしら? 何の正義感も持っていないで、 現実を正当化して市民面する人間ほどみっともない奴はい ないわ。さあ、どうするの、このまま背徳者のままで一生 を終えるつもり?
 自己批判というものを自分の内部で血肉化して、新しい 社会観と人間観を持って、それで漸く過去の誤りは払拭さ れるものでしょう? それを為すべきよ、まずは、青年た る者は。焦る気持ちは分かるけどね。」
 畳みかけるようにユリカは追い打ちをかけた。青年は今 度は顔を蒼ざめさせた。
 「貴方は自分の過去と未来に怯えているようね、余程悪 いことをしてきたと見えるわね、他人の命令で。一人で考 え、闘ったことのない人間はこれだから駄目なのよ、腰抜 け!」
 勢いよくユリカは、心地よげに一喝して胸を撫で降ろし た。青年は、中空を睨んで、口に入れかけていたムニエル をこぼして、喉を詰まらせ、声も出せずにいたが、やっと、
 「具体的にどうしろって言うんですか?」
 と、訊いた。
 「研究をすることよ、自分の領域の。ここにいて邪魔の 入らないうちに、下地を作るのよ。同時に、マルクス主義 に未来はないという論文を公表する準備を早急にすること ね。堂々と反旗を翻すのよ、逃げ回らずに。逃げれば食い つかれるだけだから。
 青年はなるほどという表情で頷いた。
 『マルクス』、その虚妄の哲理の終焉」なんていうタイト ルは如何ですか?」
 「悪くはないけど、もう少し練りなさいよ。」
 「急には書けないな、どこをどう攻めればいいか解らな いし。」
 「それは、貴方が自己批判することと密接に関係してる 筈だから、そういう要点をあげてから書いてゆくしかない わね。学問的に書くんだから、学者の卵には試金石でしょ う、頑張りな。要点を明確にということを、まずは心がけ て、簡潔に示すことから始めないと、冗長になっちゃうわ よ。
 仮面についての研究と重ね合わせるといいと思うけどな、 面とペルソナという機軸で考えるとね、ああいう思想と人 格というペルソナが絡む理論には。あんたの本当の問題意 識だと思うわ。」
 「ふむ、それはとてもいいヒントだ、貴女、哲学につい てかなり詳しいみたいですね、驚いたな、そういうこと発 想出来るとは。」
 彼は手を丸めてポンともう片方の開いている手を打って、 何か会得したような拍子を作った。そして続けた。
 「それは正にキーポイントですね、マルクスを整理する 際の通底器のような。とても大きなキーであることは間違 いない、凄い視野を持っていますね、貴女、びっくりした なあ。
 ここに来て早々、そういうことが解る人に出会うとは、 私にとっては、奇跡的偶然の幸運とでも言うのか。貴女は どこでそういう教養を身に着けたんですか?」
 「白鳥座のパリ大でね。でも、そういうことが解りかけ てきたのは、日本に来てからよ。幼い頃から能面とか謡曲 に興味を抱いていたけど、その見方が、物を見て思考する 際のある種の機軸になるということに気が付いたのよ。あ たしの関心事は、その、面と人格とか、ペルソナの思考と いうものの、関係項を分節化することにあるの。
 それはまだごく初歩的なところに留まっているけど、発 展させたいわ。でもそれは純思考的な世界に閉じこもって いて、具体化するためには何かがあるような気がしている のよ、それを探しているところ、あまり焦らずにね。
 貴方は急がないとね、間に合わないわよ。具体的材料が あるんだから、そのクリティックに夢中になりなさいよ。 マルクス主義という仮面を外したら、どんな面・ペルソナ が現れるか、それに貴方の将来がかかっている、ジャジャ ジャジャーンていうわけよ。
 マルクス主義というのは、人格を被るんだから、仮面と かペルソナというもので捉え返すべきものよ、本来的に。 それをした人がいないとは不思議なことね。マルクス主義 者は頭が固いということよ、いっひっひ。」
 「確かに貴女の思考は柔らかい。それでいてとてもよく 切れる。そういう女性がいるということを初めて知りまし たよ、こんな僻地に来て。ここに送り込まれた時は悪夢で したが、貴女と会えて、夢の国に来たような気がしますよ。 来てよかった、貴女と会えたんだから。
 T大にいたら、こういう大きな進歩は得られなかっただ ろうと思いますよ、私の場合は。仲間と主義主張に絡め取 られて、にっちもさっちも身動き出来ず、悪夢の道をダニ のごとく歩んで、人々を苦しめていたことでしょう。
 それをたったの数日で、貴女は私の目を開かせてくれた。 私の学問の端緒さえ掴まえさせて下さった。貴女は私の先 生であることは確かです。これからも宜しくお願いします。 仮面の研究家と巡り会えたことが、私の仮面の研究に多大 のインスピレーションを吹き込んだのも確かです。深く、 心の底から感謝の念が沸き上がってきます。
 それと私、フランスの学者の仮面についての、まだ日本 語に訳されていない本を数冊持ってるんですよ。その中で、 日本の面にもかなりのページを割いて解説してあるのがあ り、貴女にも興味があるんじゃないかと思えるので、その 本から翻訳してみたいんですが、お手伝い願えませんか。」
 「翻訳する手伝いならしてもいいわよ、でもあたしは、 ミッシェル・フーコーのアルケオロジーの本は読んだけど、 普通の考古学は何も知らないよ、あたしはオーディオ工学 出身だから。」
 「大丈夫ですよ、是非手伝って下さい。僕は、考古学の 専門用語なら判るんですが、そうでない一般的な言葉の語 彙が少ないもので。その点貴女はフランス人、フランス語 はお手のものでしょう、宜しく教えて下さい。」
 今度は彼は、期待に満ちた顔付きになった。そして、残 っていたムニエルとライスをほおばって平らげ、ユリカが 食べ終えるのをじれったそうに待った。





N E X T
・アンドロギュヌスの肖像 U・ ∴目次
 1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴
 4章 ∴





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni