両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第三章  仮面の面影   -8-  闇のイヴ


 早田と今子ちゃんは、六月の初めに引っ越して行った。 するとすぐに、西片が頻繁に若宮家へ足を運ぶようになっ た。一週間に一度来るようになった、お土産を持って。
 「ユリカさん、寂しそうな顔してますね、早田君とその 子供の面倒見過ぎたんじゃないですか。カレ、その我が儘 振りに嫌気が差したんですよ、きっと。心の底では済まな いと思っていたんでしょう、多分、今でも。だからカレは 出て行った。
 忘れなさいなんて言いませんが、別口の楽しみを探す方 がいいですよ。他人の子供の面倒見るのは大変ですよ、い くら貴女が世話好きで、母性本能の強い女性だとしても。
 日和見的男の立場から見ていましたけど、こうなること を予想していました。のめり込めば込むほど、心のしこり は大きくなる、そんな関係のように見えました。
 訣別の時が来たんですよ。カレは貴女にとって、マスク  ドゥ ファタル(運命の仮面)だったかも知れませんが、 仮面を脱いだんです、カレは、自ら。去るべきだと悟って。 しかし、何故に仮面が剥げたか、理解したとは思えません ね、カレの場合。自分は本当は男なんだと自覚していない ようですね。
 運命の定めるところ、貴女は保母さんだった。それから 解放された今や、貴女の前途に別の天命が落ちたと考えた 方がいいですよ。
 僕は貴女の忠告に従い、又、助力を得て、T大の講師に なれました。その恩返しをしたい、これから、貴女を楽し ませてあげたい。
 貴女の哀しみをこれ以上深くしたくないなんて、格好い いことは言えませんが、そんな軽薄なことを言うつもりも ありません。唯、心の区切りをつけた方がいい時ですよと、 一言忠告したい。いつの間にか僕も二十九、迷いたくない 歳でしてね、、、」
 と西片は、如才なく、言うべきことをうまいこと丸めて、 尻尾を濁してユリカを見つめた。
 「あたしはカレの子供を育てるのが夢だったのよ。早田 君をしたい放題にさせてしまったのは後悔してるけど。気 がついた時は既に手遅れだったわ。子供の面倒を見るのに 頭がいっぱいで、カレがあんな躰になってしまうまで気が つかなかったなんて、保母さんとしては失格だったわ。」
 「貴女の責任ではありませんよ、それは、カレの意志と いうか願望だったんですから。それをやりたい放題やった ら、滅茶苦茶になってしまった、心も躰も、ということで すよ。」
 西片は、ユリカと早田の中学以来の付き合いを知らない からそう言う。それは仕方のないことだとユリカは思うが、 その実体を打ち明けることはできない。
 「女は男を自分に引き付けておきたがるのね、モン・シ ェリ(あたしの愛人)として。」
 ユリカは溜息をつくようにそう言った。
 「コレットの小説にありますね、[シェリ]というのが。 その次は、[シェリの最後]でしたね。早田君はそこまでは いかなかった、幸いにも。」
 西片は、遠くを見ているユリカの瞳を覗いて、彼女が何 を今見ているのか不安になってそう言った。
 「いつ自殺してもおかしくない人よ、カレ、シェリのよ うにピストルは持っていないけど。
 そんな関係にあったオトコの人がいたこのあたしと、付 き合って下さるの、西片さん。」
 「早田君は、はっきり言って、仮面を脱いだら、何も無 い人間ですよ。女の仮面を剥いだら、そこには男も女も息 づいていなかった。男でも女でもないとは、人間でないと いうことですよ。人間であるとしても、[アンファン・エ テルネル](永遠の子供)じゃないですか。
 あなた達は、一つ屋根の下で暮らしていただけの間柄、 肉体関係は無かった、僕にはそう見えましたよ。カレはこ の家に宿泊していただけ、子供を預けて。」
 ユリカも性生理が無いのだから、西片の言う永遠の子供 に過ぎない。彼はそれを知らないから平気でそう言う。そ れは仕方のないことだが、とても悲しい。その気持ちさえ 打ち明けられないのだ。
 「そうね、あたしはお人好しの保母さんだった。 カレの父親が昨日、二百万円持ってきたわ、現金で。半 年の間世話してくれたお礼の気持ちだって。受け取らなか ったけど、手切れ金のつもりだったらしいわ。カレのお父 さんにしてみれば、もうこれ以上付き合って欲しくないん じゃないかしら、そんな顔していたわ。」
 「正に現金な奴ですね、それにしてもたったの二百万と は、馬鹿にしている。」
 ユリカは涙を流した。
 「そう言う態度を見せにきたのよ。」
 鳴き声でそう言った。
 「嫌味な親父だなあ、全くけしからん。僕が居合わせた ら、唯じゃ返さなかったのに、その二百万の札束で、そい つの顔をひっぱたいてやったのになあ。そういう場合は少 々手荒い振る舞いをしても問題にならない、惜しいことを した、腕が鳴る。」
 西片はいかにも忌々しいといった表情でそう言った。
 「貴方、まだ血の気が多いようね。」
 涙を拭きながら、ユリカが楽しげにそう言った。
 「僕は男ですからね、根っからの。ワンピース着て大学 に通うような女男とは違いますよ。」
 「貴方の躰つきじゃ、倒錯のしようがないものね!」
 ユリカが冷やかした。
 「それはお互い様じゃないですか、貴女は女性美の典型 のような躰つきだ。」
 何も知らない西片が横目でユリカの躰を確かめるように 見た。
 「太陽の光が、自分を浮き彫りにしてくれる魅力的な闇 に恋をして、変態して夜空に照って浮かぶ、月の明かるさ になったみたいな人だわ、早田君。」
 ユリカはしんみりしていた。
 「そりゃあいい表現だ、文学的だ、貴女、小説でも書い たらいかがです。」
 西片が煽てた。
 「カレをモデルにしちゃ可哀想だわ。」
 静けさに浸み入るかのようなユリカの物腰に、まだ早田 のことを愛しているのかと思った西片の顔が青ざめた。そ こをすかさずユリカが突いた。
 「貴方、青ざめたわ、好色な鮫だわ!」
 「いやあ、参った、貴女は全く文学的だ、、、でも、僕は 人を食ったりしませんよ、できませんよ、そんなこと、青 鮫じゃありませんよ。」
 西片は必至な形相で言葉合わせをした。
 「可愛いのね、坊や、見かけによらず、ジョークが通じ て楽しいわ。」
 やっとユリカが微笑み、西片は喜んだ。
 「年下の女性にそんな風に言われたの、初めてです、覚 えておきますよ、永遠に、僕の記念日だ、今日は。」
 「おめでとう。あら、あたし酔ったみたい。」
 ブランデーの入ったグラスを見つつ、ユリカはフーッと 息をした。
 「ユリカさん、少し酔うと楽しいことを言うんですね、 僕、そういう人好きだな。」
 「そういう相槌入れる人、あたしも好きよ、本心かどう か怪しいけど。」
 そう、心にもないことを言って、ユリカは、西片の厚い 胸に凭れかかった。
 「いやあ、勿論本気ですよ。」
 西片は力強くユリカの背を抱き寄せた。
 「嬉しいわ!」
 ユリカは抱かれたまま目を瞑って上を向いた。その唇に 西片は接吻した。二人の初めてのキスだった。
 こういう会話のできる女なら、口うるさい学者の奥さん 連と一緒になっても負けはしないぞ。是非ユリカを自分の 妻にしたいものだと、西片は本気で思った。
 今がチャンスなんだがな、妙な三角関係から抜け出るた めには絶好の機だ。早田一家に逃げられて傷心しているん だろうから。しかし、ここは注意深く冷静に、しかし心は 温かいという態度が必要だ、意外と難しいぞ、何しろ手強 い女だからな。
 注意しなければ、こういう時、女は気が立っている。邪 険な態度を取ったりするものだ。気をつけて話さねば。少 し憂さ晴らしさせてやるのがいいのか、俺相手に。
 しかし何故かいつも、話はユリカに引きずられて展開す る。相槌を入れるのがやっとだ。当分それに歩調を合わせ よう。などと作戦を練りながら、その日は引き揚げて行っ た。


 「人生の苦労を味わってきた奴だな、西片は。」
 パパが彼を褒めるかのように言った。
 「じゃあ、早田君は?」
 「あれはお嬢様だ、雌猫だ、男とは異質な何かだ。」
 「でも、普通じゃないという点では早田君の方が上よ。」
 「いや、ユリカ、頭がいいということでは、西片の方が 普通でないぞ。早田は[マゾモン]ってレヴェルだ。」
 「マゾヒスト者のことね、グーッよ。」
 パパの言う通りだろうが、ユリカは心の底で、早田の人 間性を磨いて欲しいと願っている。そのためには、早田の 一時的独立は必須の条件のような気がする。二人は当分絶 交する必要があると思える。
 「早田のことは忘れてやれ、彼奴のためだ。」
 パパもそう思っているようだった。
 「西片には、自分は子供を産めない躰だなどと言うんじ ゃないぞ、結婚するしないに関わらずな。」
 「そうね、こればっかりは秘密ですもん。」
 「プライヴァシーの最たるものだ、何歳になってもな。」
 「そうねえ、どうすればいいのかしら?」
 「唯黙っていればいいのさ、この件に関してはな。」
 二人は実の親子のようにうち解けて、心の中を言い現せ るようになってきていた。
 「西片さんが来る限り、そうするしかないようね。」
 「そういうこった、西片の女運が悪いってところだな。 今のところ、自分中心に考えていればいいのさ。」
 実の娘に言うような感覚でパパは応じている。
 「そうねえ、奇蹟でも起こらない限り。」
 「祈るしかないな。」
 「何に祈るの?」
 「大宇宙のクリニックセンターにだ。」
 「それはいい思いつきだわ、白鳥座にあるかも知れない わ、大宇宙のクリニックセンターが。」
 「そうさなあ、あの大星雲はブラックホールだと言われ ているから、そこには何でもあるってことが有り得るな。 祈りも通じるだろう。」
 「あたしのお腹のブラックホールもさっぱりさせてくれ るでしょう。似た者同士、テレパシーに霊なる治癒の光陰 で応えてくれるかもね。」
 「それしかないな。」
 こういう話は、何億光年離れていようと、距離など無関 係のように思われる。以心伝心、即刻通じるもののように 思えた。祈りは、時間・空間を超越するらしい。そうでな ければ役にたたない。


 一週間後、再び西片が訪れた。
 「大分顔色が良くなったわね、西片さん。」
 「そう言われると照れる、僕、アルコール飲むと蒼くな るってみんなに言われるもんで、このところ禁酒していた んですよ。きっとそのせいですよ、報われる気がします、 そう言われると。」
 「そうお、青鮫から頬白鮫に変身か! もっと怖いわ。」
 そうユリカが変身した。
 「何てことを、そんな風に言われるなんて、夢にも思っ ていなかった。でも、ブラウンシャーク(シロワニ)より かまだましでしょう。あの無粋な格好した奴よりか。」
 西片がむきになったのがおかしかった。
 「そうねえ、シャチよりかましってところね。」
 「ああ良かった、あれは哺乳類ですよ、海のギャングな どと呼ばれていますが、分類上は人間に近いですよ。」
 彼はT大の講師だけあって、知識の幅が博い。
 「あら、そう、じゃあまあ、興冷めよりかましだわ。で もブラウンシャークって、最高に格好いいと思うけど。」
 「アッハッハ、参った参った、鮫に強いですね、ユリカ さん。
 珊瑚礁で泳いでも貴女だったら、鮫に食べられないかも 知れませんね。鮫の方が青ざめるかも知れませんよ、特に 雌の方が。」
 「あら、あたしそんなに好色かしら。」
 「いえいえ、鮫が貴女を見たら、拒食症に罹るんじゃな いかって、そう思っただけですよ。」
 「尚悪いじゃないの、あたし、そんなに醜いかしらね、 人食い鮫が吐き気を催すほど、そう聞こえたわ。」
 「とんでもない誤解ですよ、あまりの美しさに見とれて、 食い気を亡くすんじゃないかって、そう思ったんですよ。
 頬白鮫に頬ずりされるんじゃないかってね。人魚姫です よ、貴女は。でも雌鮫は嫉妬して何するか判りませんよ。」
 「うまいこと言って、ムッシュー、あたしを食べたいん じゃなくって!? 切り身にして冷蔵庫にしまいたいんじゃ ないこと、それとも蒲鉾にするかしら。」
 「ユリカさん、今夜は少し気が立っているみたいですね、 少し横にしましょう。」
 そう言って西片は、ブランデーのボトルをユリカのグラ スに傾けた。なかなかうまい言い回しだと感心させられた。
 「そうねえ、あたしの方が興鮫だったわね。そうあたし に自覚させて、貴方、無事に帰れると思っているの! 料 理の支度はできているのよ!」
 「ウッフッフ、凄い冗談だ、貴女に料理されるのなら本 望ですよ。でも貴女は人食い鮫には似合いませんよ、いき なりガブリというのは。もうよしましょう、人食い鮫の話 は。」
 「怖くなったんでしょう!」
 「僕の顔色を酒の肴にしようっていうのは結構ですがね、 フカヒレのスープに煮込まれそうだとなると、本物の鮫で も芯から震えますよ。そういう恐怖に戦く顔を酒の肴にす る趣味ですか、ユリカさんは。」
 ユリカは思わずクックックと笑ってしまった。
 「水を得た魚のように、よく喋りますのね、西片さん、 本物の鮫のようだわ。とても面白いジョークだったわ。ズ ッペは飲み終えてしまったんですから、安心なさって、た んと召し上がって。」
 ユリカはサラミの切り身を盛りつけた皿を西片の前に差 し出した。彼は一切れつまんで口に運んだ。
 二人はブランデーを小量飲んで、和やかな顔を見せ合っ て、暫く話を止めた。気分が落ち着いていった。
 西片は、壁際にユリカと一緒に買いに行ったスピーカー ボックスが置かれているのに気付き、それで何か聞きたい と言うので、ユリカは、ビヴァルディーの「四季」をかけ た。お客様用のソースだ。
 二つのボックスの間に置かれている、マルチチャンネ ルドライヴ用のアンプや、レコードプレーヤー、CDプレ ーヤー、カセットデッキなども、みんな自分で作ったもの よと言って自慢した。
 西片は、びっくりしたように、凄く音がいいと言って、 感嘆して聞いていた。


 「僕、今年の九月から一年間、ヨーロッパ留学するつも りなんですよ。どうです、ご一緒に。留学先はほぼヨーロ ッパ全域です。フラフラとドドイツを少しずつしか分から ない僕一人では心細いんですよ、実を言うと。」
 西片は正直そうな顔でユリカを誘った。
 「旅は道ずれってわけ。」
 「世(余)は情けと言うでしょう、費用は僕が負担しま すから、是非。」
 「パラシュート買って下さるなら、考えてもいいわ。あ たしが乗ると、多分、飛行機墜ちると思うから、パラシュ ート締めて乗らないと助からないわよ、貴方もそうしなさ いよ。」
 「それも一興、他の乗客乗員は死んでも、二人だけは生 き延びられる。飛び立つ前からスリルがある、墜落するの が楽しみだなあ。大空から落下傘で舞い降りるなんて、思 っただけでも胸が騒ぐ。アヴァン・プロポとしては上でき だ。随筆風に書くにはもってこいだ。」
 西片はいかにも楽しそうだった。ユリカは西片のプロポ ーズ大作戦が始まったと思って、ハラハラし始めた。
 「真っ先にタラップに駆け上がって、[皆さん、この飛行 機は墜ちますよ]って乗り込んでくる人達に大声で叫ぶの、 楽しいだろうなあ、湧く湧くしちゃう、僕。」
 「阿呆、黄色い自動車が飛んできて、貴方、鉄格子の中 に収容されちゃうわよ。そういう話は、空に舞い上がって からにしなくちゃ駄目よ。みんな真っ青に蒼冷めるわよ、 そっちの方が楽しいわ。」
 「ええっ、貴女、今度は貴女が鮫になった、人を食うタ イプにもなれるんですね、ユリカさんは。」
 「こういう話が何故流行らないのかしらね、不思議だわ。 飛行機に乗るって、命がけのことなのに、どうして全員に パラシュート用意しないのかしら、会社の怠慢よ。
 あたしはエクスタティカーだから、何言い出すか分から なくてよ、大空に舞い上がったら。心も身も空の上、現実 と幻想と恐怖が一つになって、あたしは大惨事の祠祭的女 予言者、好色な鮫共を思い切り震えあがらせてやるわ、真 っ蒼になるまで。」
 「貴女、随分と趣味が振るってますね、人食い鮫を食お うなんて、何だか眩暈に犯されてきましたよ。こんな経験 初めてですよ、女の人と話しているうちに眩暈に犯される なんて。」
 「あたしは無重力の大宇宙を飛んできた白鳥よ、三半規 管の倒錯には慣れっこよ。好色な鮫共が真っ蒼になって、 吐き気を催しても、あたしは何ともないわ、アッハッハ。」
 「そう、パラシュートが開いたら僕達、白鳥座に行ける、 夢の古里に、楽しみだ。」
 「そう。じゃあ、そうなるようにお祈りしましょう。」
 ユリカが真顔で言うので、西片は少し心配顔だった。
 「さあ、ミュステリオーン(秘儀)よ、一緒に。」
 「ほう、今度はギリシャ語、さすがパリ大出、教養が深 い。それで、贄は?」
 「一緒に乗る人間達の肝っ玉よ。」
 「そいつは面白いや、現実の味がするだろうなあ。」
 「そうでなくちゃあ、脅かし甲斐がないわ、それも極太 のウェストをした男の肝を、思い切り縮みあがらせてやる のよ。」
 「貴女、デブに恨みでもあるんですか?」
 「そうよ、アフリカでは何万という人が飢え死にしてる わ。それを嘲笑うかのように無視して肥え太っている奴ら、 絶対許せないわ。そういう飽食な鮫共に、地獄の恐怖を舐 めさせなくては気が済まないわ。」
 「確かにそう、そういう鮫共には胃痙攣を起こさせてや りましょう、二度と飽食できない躰にしてやりましょう、 拒食症に罹らせてやりましょう。」
 「そう、二人力を合わせて、プチブル共を芯から震えあ がらせてやりましょう、約束よ。パリジャンをヴィリディ アンにしてやりましょう。」
 二人は、妙なところで意気投合して笑った。
 「ところでユリカさん、貴女の顔、ドイツ文学専門の里 中教授にそっくりですね、本当のお父さんよりも似てい る。」
 「そんなに似ているかしらね。」
 ユリカは素っ気なく言ってから微笑んだ。
 西片はプロポーズに成功した気分で意気揚々と帰って行 った。


 一方ユリカは、西片と付き合うと悪徳ばかり身に着くよ うな気がして複雑だった。西片に限らず、正常な男と付き 合うとこうなるような気がした。
 それもこれも、自身が石娘(うまずめ)だからだ。これ から脱出できなければ、平凡な夫婦生活は送れない。子供 ができなくてもいいと、初めから承知している相手なら話 は別だが、そういう男は滅多にいない。
 他の女に手をつけるに相違ない。それは面白くない、プ ライドが許さない、妻という名のプライドが。そうならぬ よう、ブラインドを降ろしているのだが。
 そういう悩みを解消すべく、かかりつけの医師の見守る 中で、諸種のホルモン剤の投与をされてきている、子宮の 再生という奇蹟を目差して。しかしまだ、女王宮は造営さ れていない。
 その名残の波紋が時折感じられるのは、幻影に過ぎない のだろうか。その波紋が感じられる時の喜びよう、それは 普通の女性には分からないだろう。しかしまだ。その幻影 は確かにある。それが唯一の頼みの綱だ、求めるべき幻想 の原形質だ。
 奇蹟を念じてきた歳月は、早、十数年を過ぎた。やはり 奇蹟なんて起こらないものだろうか。祈っても無駄なのだ ろうか。幾度ともなく繰り返してきたミュステリオーン (秘儀)は、無為のうちに砕け散るのだろうか、カノジョ の過去の宝石と共に。
 自身の子孫を残そうという願いは、無惨に足蹴にされる のだろうか。そういう期待や執念も、この数年のうちに大 方の片が付くだろうが、それまでが不安だ。一生奇蹟を念 じる心と共に、生き延びなければならない。
 不可能に近いことへの挑戦、トライアル、あくなき希求。 それらが織りなす心の契機は、どんな瞬間(モメントゥム) を産み出すのかしら。まだ見ぬ心の頂上を目差して、今は あるがままに生きてゆきたい。しかし、他人と係わると、 思い通りにはいかないのが道理。
 高き波濤に沈む宝船の探索に潜ろう、息を吹き返すため に登ろう、理性のまだ見ぬ頂きへと。海の幸と山の幸、そ して言葉の錬金術、其処に芽生えるこの世の華達。
 しかし、早く肉体関係を卒業したい、肉のディプローム (卒業証)が欲しい、証書として子供が欲しい。その夢が 自身を犯す。自身の女性性を犯すもの、それが自身の眼差 しだとは、何と辛いものだろうか。
 自身が自身の眼差しの前に在ることに耐え切れぬとは、 何という不幸だろうか。哀れなのは自身だろうか、それと もそんな自身を見つめる自己だろうか。
 裡なる他者を変容できない。あのカンヌの浜辺で実感し た、他者の変容の成功は、西片を前にして通用しないとは、 あの松尾にプロポーズされた時と同じままだ。自己欺瞞が のさばってくる、自身の胸の裡深く。
 ユニセックスから脱獄できたものの、無性人間への頽落 は耐え難い。早田の逆も又不幸だとは、何という冷たい運 命だろうか。ユリカの青春は、暗黒の内に終わりを告げる のだろうか。松尾と同じく、西片もその獄に虜籠められる のだろうか、ユリカの表面に捉えられて。
 しかし今は何故か、松尾と対していた時よりも幾分か落 ち着いた冷静さを装っていられる。それは、今では戸籍上 も女になっていて、しようと思えば、男と結婚出来るから だ。
 昔の夢の一つは達成された。後はここ数年に奇蹟を期待 するしかない。それが唯一の生きる糧だ。それしかない、 西片と付き合うには。早田とならいつでも結婚出来るが。
 果たして、ミューラー菅組織は再生するだろうか、不安 の範疇に自分を引きずり込む期待だ。カノジョには不安が 着いて回る、いつも。喜びにも悲しみにも、永遠に翳り深 い不安が。子供を産めないということは、底抜けに暗く切 ない思いに女を緊縛する。
 しかし、この辺で一度くらい賭のような生活に身を没し てみることも、人間存在として必要ではなかろうかと思わ れる。





N E X T
・アンドロギュヌスの肖像 U・ ∴目次
 1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴
 4章 ∴





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