両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第四章  奇蹟への道   -4-  美しい出血


 季節は秋になり、長雨も上がり、秋特有の青い空が空気 を冷却し始めていた。昨夜西片と初めて性行為をしたユリ カは、朝起きると、その想い出を洗い流そうとシャワーを 浴びた。朝シャンをして、反省しながら、心も晴れ晴れと したいものだと思った。
 自分にとって、愛の対象でない男と性行為をしたという、 曖昧ではあるが、釈然しない心を抱いてしまったと思った。 西片にとっては自身が愛の対象だったという実感を噛みし めて。つまり自分からは愛していなかったが、彼に愛され て躰を許したのだという現実を。
 そして、体験したからといて、愛的絆になったわけでは ない。返って、溝を深めたと思える。肉の快楽は誰もが欲 するもの、いや、必要とするもの。愛する者同士の性交以 外、不義密通だとか、淫売だとか考えるのは、時代錯誤だ わと思える。
 躰を許したからといって、心まで奪われたわけではない。 こういう意識は、奴隷や娼婦と同じではないだろうかとも 思えた。それ以上に、現実的にありふれた行為ではないか、 ほとんどの人間は、労働に、体力と思考力を身売りしてい るのだ。女風に言えば、貞操を犯されているのだ。
 それが性に係わったということだけだ。ありふれたこと だ。しかし、何故か心が重く暗い。それは、性行為という ものが、愛と密接に関係しているからだろうと、ユリカは 思った。西片のことが嫌いになった。今朝、そう感じてい る。秋の空のように、模様が変わった。
 性行為が愛を考えさせ、そして、愛されたことに心が冷 えて、うんと寒くなった。彼とはこれっきりよと思った。
 などと考えながら、割れ目にシャワーを当て、昨夜の想 い出を削ぎ落とすべく指を滑り込ませた。すると、今まで 感じたことのない、ワギナの奥深くでの律動を覚えた。そ れを確かめた。
 風呂場から上がると頭痛を感じた、風邪を引いたのかし らと思った。すぐに、下腹部に重さと疼くような刺激を覚 えた。しかしじきに収まると軽く考え、ズロースを穿き、 キャミソールを被り、ミニのワンピースを着て、髪の毛を 乾かして、軽くお化粧をして池袋まで買い物に出かけた。
 しかし、その下腹部の異常は一向に収まらず、いよいよ 重くなって行き、下着が濡れてきたように感じ、地下一階 のランジェリーショップで下着と、別の店でナプキンを買 い、急いでトイレに入った。
 赤かった、血が出たのだ。十五分もトイレに籠もってい た、出血が収まるまで。下り物も溜まっていた。
 ユリカはその汚れた下着をビニール袋に入れるとバッグ にしまい、下着を穿き替え、かかりつけの産婦人科医院へ と向かった。生理が起きたに違いない。昨夜、西片を大人 にしてあげたら、自分も大人になったのだろうかと、悦び に浸りながら、小日向のいつもの医師に診て貰った。
 下り物を調べた限りでは、これは確かに月経の産物であ ると、医師も、今までの努力が実ったと喜んだ。コンピュ ーター診断の結果も、並の大きさの子宮があることを示し ていた。長い間の投薬と苦労が実を結んだのだ。多分、子 供も産めるだろうとのことだった。
 確かなる奇蹟が自分の躰の中で成就したのだ。現在が輝 いた。性に内実が籠もった。模造でしかなかった身体が、 女として新陳代謝を始めた。精神が初めて呼吸をするかの ように、フーッと息を吐いて吸い込んだ。心地よい空気が 胸を膨らませ、水晶のように澄んだ瞳から涙がいっぱい溢 れ出た。
 何という美しい出血だろうかと、ユリカは返品されたズ ロースを前に吊して、しばしの間見つめていた。そしてそ っと口づけをした。医師の、ユリカを見やる視線の異様さ に気付いて、急いで下着を袋に入れてバッグにしまった。 それが宝物のように思えた。
 医師は、奇蹟に恵まれ、感涙して吾を忘れているユリカ を見て、感動していたのだ。この悦びを分かち合える日が くることを、医師も願っていたのだ。しかし、突如として 訪れたこの奇蹟を前にして、茫然自失してしまっていた。 しかし、ユリカの動作で目を醒ました。
 「コングラチュレイション!」
 そう言われて、ユリカは感激のあまり、顔を手で覆い、 泣き崩れてしまった。
 「神の御心の輝きを、共に感謝できる今日この日よ、永 遠に祝福されてあれ!」
ユリカと同じカトリックの教会に定期的に顔を出すこの 医師が、漸く言葉にして、悦びを表した。
 「主の恵みに永遠の感謝を!」
 ユリカが泣き声で応えた。二人は固い握手と頬ずりを交 わし、別れた。ユリカは、流れる涙を拭いもせず、地下鉄 に乗り、我が家に帰った。神への感謝の念で胸をいっぱい にして。
 今までの現実に別れを告げるべき時のような気がした。 現実が変貌したのだ、子供を産める女存在へと。ミューラ ー菅組織が再生したのだ。子供を産める適齢期の間に、男 を選ばなければならぬ、狭められた年限に青春を賭けるべ き存在になったのだ。
 結婚というテーマが目前に据えられた。既に西片にプロ ポーズされている。西片にとっては真面目な恋愛の経験だ が、ユリカにしてみると、行きずりの付き合いでしかない ような気がする。
 自分の肉体が拝領した天恵を誰と分かち合うべきかとい う、考えるべき命題に突き当たったことを実感した。
 西片には、不妊症だとは知られずに付き合ってきた。そ れは西片を、N 同から引っこ抜くという楽しみに任せての ことだった。そして、翻訳の手伝いをしたのは、仮面につ いての考え方を深めたいという欲求故だった。別に彼に肩 入れしたいからではなかった。
 このまま西片と結婚しても、多分子供は産めるだろうが、 自分の曖昧な動機は直しようがないように思える。確かに 西片はユリカの言うことを理解して実行した人物であり、 ユリカを心から慕っていることはよく解っている。
 彼にとってユリカは、魅力ある女性であるらしい。しか しユリカにとって彼は、魅力的とは言えない人物だ。なる ほど思考力と実行力はあるが、それはユリカに誘発された 結果だ。ユリカと出会っていなかったら、多分まだ助手と してサロマ湖畔に島流しの身だろう。
 愛情の故に彼が東京に戻れるよう、里中樹希に頼んだ分 けではない。恩を売りつけるためにしたまでだ。そして、 不妊症でも、彼の妻の座に居座れるかも知れないという、 かすかな打算は確かにあった。彼の立身出世を自分の功績 にすることによって。そう考えたことはある。
 西片は、そういう努力に対して報酬を支払った。しかし、 神性の労働は報酬を求めないようだと、ユリカは思う。 西片にとってユリカは、愛の偶像のようだが、ユリカは 偶像を否定する考えの持ち主だ。
 そして西片にとってユリカは、一層の、立身出世の頼み の綱だ。不妊だと知られても。彼の立身出世の守護神かも 知れないが、彼は、出世してしまえば他に女を囲うタイプ の人間ではないか。
 ユリカに唆されて、ああもたわいなく主義主張を変え、 出世の道を選んだところをみると、より一層の個人的幸せ の道を追い求める可能性は大だ。
 自身の肉体の奇蹟が、西片との関係に疑いの眼を向けさ せ始めた。自身が女として子供を産める可能性が出てきた 時になって、急にユリカの心のモヤモヤが眼につきだした。 西片との間に、二股かけられぬ広い溝を産み出していくよ うだった。
 滅多にない奇蹟を授けられた者として意識してみると、 もっと清らかな、利害関係のない愛の相手と結ばれたいと いう気がする。この心の亀裂は最早拭いさられるものでは なくなった。不純物を排せよと、奇蹟の重みがユリカを支 えだした。
 この天恵のような奇蹟を誰と分かち合うべきか、ユリカ は俄に目覚めた。それは、同じく奇蹟を待つより仕方のな い、あの、半分女になってしまった早田が、男の性生理を 恢復するのを待つことだ。それに尽くすべきだ。
 自身の先導によってああなってしまった早田に、奇蹟が 下るよう努力すべきだと。共に奇蹟を分かち合う伴侶は早 田だと。
 ユリカは、西片宛てにお別れの手紙を書いた。
 「―――――
 今やあたしは子供を産める身です。この奇蹟を分かち合 うべき人をあたしは知っています。その男性のために一生 を捧げるつもりです。そういうあたしの将来を祝福して下 さい。
 これからは、自分の仕事は自分でして下さい。
 あたしの最初で最後の青春のために、A DI EU。
 ―――――。」
 そう一気に書くと、先日訳して欲しいと頼まれた原本を 入れた袋に同封して、郵便局に持って行った。さっぱりし た気分だった。サバサバするとはこういうことかと思った。
 不妊という獄に繋がれていたのだ、長いこと。今やその 重い鉄鎖から解放され、女の性座に溶解できるのだ。この 日を待ち望んでいた過去の出来事が、一つ一つ手に取るよ うに憶い出される。
 今日、この日がくることを願いつつ、それが実現される か否かと、思い煩っていた。不安と希望を共有しつつ。一 度断絶された性の元、現在と過去に想いを寄せていた。そ のような過去があるからこそ、現在がことの他嬉しいのだ。
 過去と現在を結ぶ懸け橋を、歓喜を持って渡れるとは、 何と感動的なことだろう。自分の過去が燦々と煌めいて、 見つめ直されることを待っている。こうして、性の故郷に 帰れる悦びに感謝したい。
 その歓喜がユリカを、野生の情熱へと駆り立ててゆくよ うだった。生きようという情熱が沸き上がってきた。
 純粋に女の子だった小学生時代の記憶を大事に、胸の裡 に秘めて生きてきた長い年月の苦労が、今日一気に、小学 生時代の延長線上に自分の未来を繋いでくれたのだ。理屈 や抽象概念で練ってきた女性性が、野生の自然な、ありの ままのものになったのだ。
 女という裸形が、精気に包まれたのだ、美しく。夢を見 ている気分だった、夢が現実のものになったという。今、 その続きを見ているようだ。この夢ばかりは醒めないもの のように思えた。
 これから、性現象の摂理の完遂目差して、早田と共に生 きていこうと、ユリカは心に誓った。自身の直面(ひため ん)が仮面でなくなった悦びを、素直に分かち合えるのは、 彼以外にいない。早田の性機能を早急に恢復させてあげた いと思った。
 自分の躰に宿ったヴィヴィッドな性を、性的対象として 欲しいと思った。模すのではなく、生理的欲求の発現の達 成の場として、自分の躰に挑んで欲しいと思った。
 夕方ユリカは、早田のマンションに赴いた。
 「今日あたし、聖なる出血に見舞われ、女に戻れたの、 祝福して頂戴、アナタの性でもって。あたしの躰をアナタ の性の生理体操の体育館だと思って、精一杯羽を広げて羽 ばたいて頂戴、あたしを幸福にエクスタシーへと昇天させ て。」
 虚ろだった早田の眼が、徐々に生きてきた。
 「西片さんと結婚して、ヨーロッパに行くんじゃなかっ たの!?」
 「そう思ったけど、あたしの方からお断りしたわ。あた しはアナタの子を産みたいの。それはあたしの欲望、アナ タの責任。アナタの性生理を恢復させるのはあたしの責任。
 アナタはあたしの愛の律動、本質。あたしはアナタの夢 のヒロイン(実体)、それを本当に自分の胸に沈めて。」
 早田はユリカを胸に抱き寄せ、頬を摺り合わせた。
 「ああっ、ボクの実体、ボクの美しい幻覚、ボクの夢、 ボクの愛、もう二度と離しはしない。モンナムール。ボク はボクの幻想を手に入れた、これからそれに魂を吹き込も う。マイ オンリー ラヴ。二人して幻想世界を駆け巡ろ う。至福の完成目差して力を合わせよう。
 君と一緒なら、ボクは何でもできる、男にもなれる。ボ クの律動で、君の脳髄を痙攣させてあげたい。美しい幻覚 模様で染め上げてあげたい、約束する。この美しい官能の うねりが、君の五感にきっと伝わり、永遠の追憶となるこ とを、ボクは欲する。君の躰に心地よい余韻の波形紋様と なって描き出されることを欲する。」
 「あたしの美しい出血が、アナタの力強い官能の律動の 門出となることを、あたしは望む。アナタの幻想が、あた しの躰の中で自由に動き回り、実を結ぶことを強く望む。 あたしの躰が、アナタの白日夢を産む脳髄となることを望 む。
 アナタは、あたしの躰に投影した幻想を手に入れた。こ れからはその幻想に精気を吹き込むべき時。いつまでも、 あたしの肉体が、アナタの幻想を産み出す母体であり続け たいと、切に望む。その望みを適えて欲しい。吾らが幻想 の実りを司る神に祝福を。」
 「貴女の美しい出血の門出を祝って、乾杯!」
 二人はテーブルに向かい合い、ブランデーをオンザロッ クにして軽く飲んだ。
 「二人の魂が一つに結実する印に今夜、今子ちゃんが眠 り込んだら内に来て、確かめ合いましょう。」
 早田は力強く頷いた。ユリカは、早田と今子ちゃんと三 人で夕飯を食べて、自分の家に戻り、早田が来るのを待っ た。
 二人が結婚することによって、早田とユリカのコムプレ ックスは、美しい姿形となって昇華されるのだ。そう思う と、今までの苦労が報われる気がする。
 早田は九時半に来た。ユリカは、悩ましげな下着姿の早 田をベッドに寝せ、ショーツの上から彼の一物をマッサー ジした。そしてカレのご自慢の乳房に口を当てたりした。 なかなかカレのファーロスは頭をもたげなかった。
 ユリカも下着姿になって、尚も性技を繰り返した。そし て四十分かかって、漸くカレの一物は、ユリカの手の下で 大きくうねった。しかし、精液は全然出なかった。それで も早田は満足した。数年振りにオルガスムの快感を味わっ たのだ。
 二人は愛の証を、互いの瞳の中に確かめ合った。





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