アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱
第一章 再出発 -4- 悪魔祓い
翌日の午前中、住民登録や健康保険を新しい父のもとに
入れるのやらで、ユリカはお役所巡りで走り回った。ユリ
カの心はもやもやしていた。心は妙に暗かった。腹の底か
ら怨念の情に燃えていた。昨日とは明らかに人格が変わっ
ていた。
帰って、ツナサンドにコーヒーという軽い昼食を作り、
父と一緒に食べた。父はビールの中瓶を空けた。それか
ら、まだ段ボールの箱に入ったままの、昔のLPレコード
やシングル版、ケースに並んでいるCD盤やカセットテー
プの箱などを、応接室に整理して並べた。
ステレオ装置はもう三十年も前のもので、パパは、ユリ
カの腕で作って欲しいとのことだ。ユリカは喜んでOK
し、まずは設計から始めようと、いろいろある形式を思い
浮かべた。スピーカーシステムも考え、それをいかに合理
的にドライヴさせるかを優先させることにした。
それからバスルームを磨いた。
どうしてあんな奴らをもてなさなきゃならないの、アタ
シをいびり出したろくでなし共を。
そう呟いて、トイレをきれいにした。主婦は忙しいわと
思った。顔を無理に明るくして、パパと一緒にFSXでス
ーパーに買い出しに行き、今夜のパーティーの材料を仕入
れて帰り、早速準備に取りかかった。
その頃、母のウテナは、樹希に、今晩だけはユリカを本
当の女として扱い、父親らしくしてと頼んでいた。樹希も
ウテナに、女としての手本を見せてやれと、言い争ってい
た。来るのはこの二人だけだ。内輪の固めの儀式のような
パーティーで、いわば両家の交わりのイニシエイションだ。
ユリカは5時に下準備を終え、軽くシャワーを浴びて汗
を流してから自室に戻り、衣裳を選んで着て、お化粧も施
した。香水も付けた。9月初旬なのでまだとても暑く、三
十度を超える気温だ。
6時に、実の父と母が一緒にやってきて、玄関に現れた。
いらっしゃいませ、オジサン、オバサン。初めまして、
アタシ昨日生まれたばかりのユリカと申します、宜しく。
ユリカはそう言って、ミニのドレスの裾を片方摘んで広
げ、片足後ろに退いて、前足の膝をちょんと曲げて、西洋
式に挨拶した。ズロースの股間から腰の辺りまで見せた。
ウテナは「エエッ?」という怪訝そうな顔をし、樹希はギ
ョッと驚きの目でユリカを見やった。その目は冷たかった。
要三がにこにこ顔で出迎え、ダイニングキッチンに案内
した。ユリカはエプロンを着けた。今日こそはと思ってい
た、最初の作戦は成功した。実の父と母を、「オジサン、
オバサン」呼ばわりして、のっけから狼狽させた。
四人はテーブルに着いた。パパがシャンパンの栓をパン
と抜いて、それそれのグラスに注いだ。ゆっくり乾杯した。
卓上には、Lサイズの尾頭付きの鯛が一枚、ナイフで取り
やすいように予め切られているのと、八宝菜、大きくはな
いが厚いステーキが四人分、野菜サラダ、冷やしたトマー
テンズッペや茶碗蒸しがみんなの分、既に並んでいる。そ
れから順次、お赤飯、お新香をタイミング良くユリカはだ
した。
「このバブル崩壊後の不景気な時代、中味のいい料理を
こじんまりと食べるのは美徳ですな、要三さん。」
「バブル共の腹を、美徳で洗い流してやるべき時代です
な。」
「こんな美味しい料理は初めてだわ、ゆりか、いつの間
にお料理を覚えたの、信じられないわ。」
「そうだな、お前の腕前とは天と地の差だ、本当にうま
い。料理の才能は誰から伝授されたんだ、不思議の国で習
ってきたのか。」
「白鳥座の料理学校で習ってきましたのよ。」
ユリカはジョークで応じた。
酔いの回った樹希がペラペラと喋り始めた。ユリカは最後
にアップルティーを配り、エプロンを外した。
「夢幻を飲み食いさせるつもりか、今夜は。」
樹希の顔がいつものように蒼くなっていた。
「たまには腹いっぱい天国の料理を味わうのは、神を敬
うしるしですよ、樹希さん。」
「そのまま、天国に置き去りにするつもりじゃあるまい
な、ユリカ。」
樹希が管を巻き始めた。
「今夜はここが天国と思って、泊まっていくといい、天
国の夢をついでにご馳走してくれるでしょう、ユリカが。」
「バブルの泡を口から吐かせるつもりじゃないのか、ユ
リカ。」
ウテナが夫の横腹を突っついて、喋るのはもう止めてと
いつものように合図した。
「明日の朝になれば、地上に這いつくばっている、自分
の姿にお気付きになるでしょう、いつものように。
そう言ったユリカの口をウテナが手で覆った。それから
夫にアップルティーを飲ませ、酔いを醒まさせようとし始
め、自分の分まで夫のコップに移した。それを見てユリカ
は、レモンティーを新たに入れて、皆に配った。樹希はト
イレに立った。
ユリカや、いつかきっとあんたは子供を産めるようにな
ると思うわ、そしていい人に巡り会えるわ。
母のウテナが、要三の娘として甲斐甲斐しく立ち働いて
いる姿を見て、目尻に涙を浮かべていた。今まで、中学以
来男として過ごさせた自分に対する、深い反省の色が窺え
る、悲哀の籠もった眼差しをユリカに向けていた。
初めて聞く母の愛情に満ちた言葉と態度に、静かにユリ
カは耳を傾け、この母の心根が自分が小学校の頃に戻った
のを実感し、母と同様、目尻に涙を浮かべた。「お母さん」
と、その胸に泣き崩れた。
そこに樹希が戻ってきて、びっくりして、俄に酔いから
冷めたようだった。
「奥さん、そうですよ、ユリカは立派な娘ですよ、どこ
に出しても恥ずかしくない。昨夜、吾々二人で変身の儀式
をしたんですよ、祈りを籠めて。」
そう言うとパパは席を立ち、能の面を二つもってきて、
そのうちの、翁の面である白色尉(はくしきじょう)を被
った。
この翁の面は、神界と異界をこの時空に呼び寄せ、結び
つける役を担うのですよ。そういう面があるのは素晴らし
い。
「昨夜はユリカにこの小面を被らせ、ユリカの小学生時
代の面影を偲んで、ユリカとレイという女と男を融合した
精神性を神聖化すべく舞ったんです。それと、「井筒」と
いう謡曲も。
日本の古典にもいい作品があるものですなあ。ユリカは
その曲を知っていましてな、びっくりしました。鬘物とも
三番目物とも呼ばれる、真打ちの作品の代表でしてな、能
の神髄的出し物で、世阿弥がことの外力を入れていた、シ
テが被る小面を媒介にして、旅の僧が夢現の中で、女性の
過去を想い浮かべるという夢幻能の構成で、ユリカにはぴ
ったりでした。」
パパが力説した。
「レイという少年は、ワタシの胸の裡に突如生まれ、ワ
タシ以上の造物主(デミウルゴス)に成り上がろうと、日
夜ワタシと格闘していた、いわばルシファーみたいな存在
で、それを許さなかった神を代表する大天使ミカエルの槍
の一突きで地獄に突き落とされた子でした。天をも怖れぬ
愚か者でした。
毎夜ワタシは、彼を地獄に突き落とさねばなりませんで
した。夜の眠りの不安な帳の中で、ワタシは埋葬する司祭
の役を務めていました。彼が地獄の火焔の中に吸い込まれ
る刹那に交わされる、アタシとカレとの邂逅を毎日見守っ
てきた、墓石でもあるのです。
誰も、ワタシの墓に詣でてくれる人とてない、雑草の生
い茂った荒れ寺に曙光が射す頃、ワタシのかすかな平穏な
夢は破れて、地獄でサターンとして、更に強烈な焼きを入
れられたカレが、ワタシの墓石から蘇り、日中アタシの口
を封じたのです。
どんなにか幽暗な暗闇をアタシが愛していたか解ります
か? 暁ほど憂き物はなかったのです。眠れぬ夜が、いか
に嬉しいものか解りますか? レイの墓石を建てて参拝す
るという行為は、毎夜、ワタシの心の裡で執り行われてい
たのです。それはワタシの最大の欲望でした。
夭折する少年の気持ちが読めますか? 毎夜、地獄の火
焔の底に突き落とされる少年の恐怖を理解出来ますか?
純真無垢な恐怖を感じ取れましたか? 身投げせざるを得
ない運命を憐れんだことがありますか?
そしてより一層の焼きを入れられざるを得ない運命を憐
れむゆとりがありますか? その時の悲鳴と絶叫が聞こえ
なかったのですか? ワタシの恐怖は、身投げしても蘇る
のだということを、嫌というほど味わいました。
それは一種の絶望をワタシに孕ませました。『絶望は罪
である』と言ったキエルケゴールの気持ちが良く解る気が
します。
その一方で、呪われた生を死ぬことの逸楽を、ワタシ
は若くして知ったのです。あなた達は呪師(ずし)でし
た。
しかし、ワタシの生は様式を変えました、性が変わっ
たことにより。ルシファーやサターンの徘徊する次元と
は別の次元に住居を変えたのです。ワタシが今にも身投
げしたい衝動から逃れ得たのは、ユリカになる日を夢見
ていたからなのだということを忘れないで下さい。
今までのワタシの性は、誰のものでもない人形のもの
だったのです。人形に命が宿ったのだと納得して下さい。
いえ、人形の精かも知れません。未だに夜離れず(よが
れず)、小学生時代に想いを寄せているのです、お人形さん
遊びをしていた頃に。
でも、未来がすぐそこから、ユリカとしてのワタシに
手を差し伸べてくれているようです。今までワタシが住ん
でいた世界は、正に牢獄でした。その牢獄にワタシを幽閉
する番人があなた方でした。家庭は牢獄であり、社会は開
かれた監獄でした。監獄で活動するよりは、眠っている方
がましでした。
いつしかワタシは、二度と目覚めることのない、深い眠
りの世界を流離う、夢見るだけの人間になっているのです。
この性癖は、決して拭い去られることはないでしょう。青
春のときめきが、夢の世界でこそ花咲く身なのですから。
今日、この世の罪穢(ざいえ)を背負ってきたワタシの
現身を変貌させる、ミュステリオーン(秘儀)を遂行出来
たことを、神の感動とも想い、とこしえの記憶としたいと
思います。アーメン。」
母のウテナは、ユリカのこの世離れした告白を、顔を俯
けて黙って聞いていた。何という取り返しのつかない悪を
押しつけてしまったことか。よくもまあ気が狂わずに生長
したことか。
その責任を今になって思い知ったとは、何という愚かな
母であることかと悔やまれ、涙を流していた。今こうして
可愛げに装っているユリカが、本当に自分が育てたのかど
うか、自信がなくなってくるようだった。その実の吾が子
の言葉を耳にして、俄に心恥ずかしい想いを胸に抱かされ
ていった。
一方樹希は、どうしてこの子は、自分の心の文(あや)
の中に分け入る才能を身に着けたのだろうかと、不審な思
いで聞いていた。本性である女性性をきつく封じてきたし、
家でも心の裡を問うようなことは一度もなかったのに、何
故、又いつ、自分の心理描写が出来るようになったのかと、
不思議でしかたなかった。
なるべく文学に目を向けさせないよう注意を払ってきた
が、文学性豊かな子であることは解っていた。しかし、吾
が家の恥部を世間にバラすような小説を書かせないように
と思う一念で、無理矢理工学部に入れたが、脳細胞の自然
な発育が、文学的表現力を豊かに開花させたのだろう。
しかし樹希にとっては、今では、このユリカがどうなろ
うと、さして心配することではなかった。今更責任を云々
することはあるまいと。「言いたい放題言え」という心境
だった。今まで散々足蹴にしてきた人物故、今更自分がど
う釈明しようと、出来上がってしまった心の深淵(ビュト
ス)を埋められよう筈もないと腹を括っていた。
自分の蔵書は一切読むことを禁じてきたが、気が付いて
みたら、自分の若い頃と同じくらいの書籍で部屋が埋まっ
ているのだ。中学の頃から玲維が、祖父の書庫から本を引
っぱり出して読んでいたことは知っていたが、どんな本な
のか、自分は知ろうともしなかった。祖父は国文学者だっ
たから、古典物も集めていたであろうことは間違いあるま
い。
平安朝の文学など、女の心理の文(あや)抜きには理解
出来ぬものではないか。玲維はそれらの本を読んでいたの
だろうと思っていたが、実は謡曲にも西洋文明にも興味を
持っていたのだということを、今日初めて知った。思って
いたより幅広い。
東京に転勤する時、それらの祖父の本は捨ててしまおう
としたが、妻のウテナが、これらは父の大事な形見だから、
どうしても持って行くと言ってきかなかったのだ。
しかし、今夜実感したことは、ユリカが今までとはまる
で別次元の人間になっているということだ。離れ駒の具合
を見ようぐらいの軽い気持ちで来たが、アッパーカットを
喰らった気分だ。この従兄弟のもとで多分、その才能を急
速に開花させるだろうと思った。酔いから冷めた樹希はそ
う察した。そこでパパがトイレに立ち、戻ると、小面をユ
リカに被らせた。
「ワタシはしょっちゅう、小面から連想される女性の顔
を描くんですよ、ユリカに似て上品な面でしょう。」
皆頷いた。
「今のワタシはまだ、女役を演じるシテに過ぎません。
様々な仮面を被ってきましたが、仮面にもペルソナ(人
格)があるのだということもよく解りました。初めは、内
面を覆い隠すために被っていましたが、それらの仮面に慣
れるに従い、仮面に生気が宿るようになりました。
しかし、自分自身ではないペルソナを演じていた時空で
は、鏡像は虚像であり、素顔は生気のない仮面でした。素
顔を見れない心苦しさに喘ぐ自己を、そこはかとなく醸し
出している鏡像は、自分でないように思えてなりませんで
した、いえ、そうであるよう祈っていました。
この時空の歪みのうちに、悪夢の墓標が揺れているので
す、今でも。女になった今でも、自分の鏡はワタシの心を
映してくれません。」
オジサアン、オバサンは、初めて今夜聞いた吾が子の内
面の吐露にびっくりしつつ、こくりこくりと頷いていた。
「大丈夫ですよ、ユリカ、もうじき本物の女の顔が鏡に
映ります。」
ウテナが励ますようにそう言った。
「ユリカ、人間というものは、顔を見るためには、心を
清純にしなくては出来ないものだ。ワタシは時々自画像も
描くので、鏡を覗くのでよく解る。心の籠もっていない顔
は描けないものだ。」
パパが心構えを諭した。ユリカは軽く頷いた。
「じゃあユリカ、しっかり女心の修練に励めよ。」
そう樹希は言うと、妻を促して席を立ち、玄関へ向かっ
た。9時半だった。大急ぎでユリカは食器を洗って棚にし
まった。パパが手伝ってくれた。
「今日はよく頑張ったなユリカ、パーティーを開いて良
かった。お前の言葉、なかなか聞き応えがあったぞ、どこ
で身に着けたのか知らんが、正に不思議の国の物語だった。
しかし何だ、あの最後の挨拶は、『サヨウナラ、オジサ
ン、オバサン』ていうのは。『又いらして下さい』と言うべき
ではないのか。」
ユリカは涙にくれていた。父からお土産にと手渡された
デコレーションケーキを、箱から取り出すやいなや、ゴミ
捨てに真っ逆様に力いっぱい叩き込んで手をはたいた。俄
に、ユリカの心で朝から曇っていたもやもやが晴れていっ
た。
それから、呆れたように冷ややかに自分を見つめている
パパに、
「パパ、お土産のブランデーを開けましょう。」
と甘い声で、せがむように言った。やおら要三はユリカ
を抱きしめ、
「ユリカ、あの人達と今度会う時はもっと上品にな。」
と一こと苦言を呈し、卓上のカミュのナポレオンを開け、
二人でグラスを合わせた。
「アタシを叩き出した人達にどんな上品な顔をしたらい
いの、パパ?」
ユリカはブランデーを一舐めして涙をこぼした。
「悔しい気持ちは良く解るがな、親のいない子よりは運
がいいんだ。親孝行したくなる時がいつか来るものだ。で
もな、時既に遅しというケースが多いものだ、お前もそう
いう気持ちになるだろう。」
ユリカは頷きながら泣き崩れた。
アタシが馬鹿だったわ、してはいけないことをしてし
まったわ、もう償えないわ、悲しいわ。でもこの哀しみ
があの人達に解るかしら、いよいよ憎むばかりだわ、き
っと。」
「追い出されたのが昨日故、今の憎しみは大きいだろう
が、お前の人生は昨日始まったのだよ、ユリカ。憎しみの
心を持って人と接しては、何事もうまくいかないものだ。
新しい家族を持った、又、生まれたばかりの人間の純真
な心をした者としてなら、過去の醜い関係を、それを続け
てはいけないのだということが、よく解る筈だ。悪循環を
断ち切れるのは子供の方なんだ。あの人達だって、自分の
子供を追い出すことには、心のどこかで痛みを感じている
に違いないんだ、そのことは解るだろう。」
ユリカは頷き、涙を拭った。
「良く解りました、パパ、本当良く解りました、あたし。
今日は朝から憎しみの念で心が穢れていました。そのアク
セルを踏んでしまいました。アタシには理性の力が足りな
いようです、自己抑制する能力が無いようです。
アタシの母はいい人でした、アタシのためを思ってこ
うして下さったのだと思います。」
再びユリカは涙を流し、ブランデーを一口飲んだ。
「若者は皆どこか愚かなものだ、それに気付けばいいん
だ、じきに賢くなる。愚か者の真似をしてはいかん。
ところでユリカ、お前、泣き上戸(なきじょうご)じゃ
あるまいな。」
ブランデーを一舐めしては涙を流すユリカを見て、パパ
はにっこりして言った。ユリカは目をパチクリさせて首を
横に振り、やっと微笑んだ。
「そう、微笑むんだ、ユリカ、そうすれば顔付きは自ず
と良くなる。心も清々しくなる。鏡を見るんだ、毎日。」
「その、自分の顔が見えないんです、アタシには。」
パパは妙な目つきでユリカを見やった。
「目が悪いのかい?」
ユリカは首を横に振った。
「じゃあ、鏡がよくないんじゃないかい?」
にこにこしながらパパが言った。ユリカは力無く首を振
った。パパは、さも納得がいかぬという表情でユリカを見
つめた。
「お前、心を閉ざしているのではないか、自分自身に対
して。今までの生活環境から察するとありうることだ。」
パパは腕を組んで思案していた。
「アタシには素顔は無いんです、ずっと昔から。」
フムフムとパパは聞いていた。
「心の迷いだな、男として振る舞わねばならないことに
対する、本心の反抗からくる自己喪失という奴だろう。こ
の家で、女として思い切りしたいことをすれば、素顔も女
になるに違いない。お前の両親もそう思ったのだろう。」
ユリカは軽く頷いた。
「何をしたい?」
「ファッションモデルになってみたいわ。」
「そうか、それなら任しときなさい、私はファッション
デザイナーとも付き合いがあるから、頼んでみよう。お前
のプロポーションなら一流のモデルになれるだろう。売り
込んでみよう、お前の絵を描いて。明日から早速モデルの
練習を兼ねて、私の絵のモデルになってみないか。」
「喜んで。」
「そうか、それじゃあ明日を楽しみにして、今日はゆっ
くり反省するといい。」
パパはブランデーを戸棚にしまい、二人は別れた。
その頃、里中樹希は一人悔いていた。東京に戻って以来、
お客さんが来て、お酒をいっぱい飲んで、客が、「お子さ
ん達はお爺さんにどことなく似ていらっしゃる、将来立派
になるでしょう」と言って帰ると、顔を真っ青にして、お
土産に戴いたケーキを、子供達が今晩は久しぶりにケーキ
が食べられると、涎を垂らして待っているそれを、箱から
取り出すやいなや、皆の目の前で、妻の顔面に力いっぱい
叩きつけたことが何度あったかと。
人格者の一人娘として育った、初な妻であるウテナの心
をねじ曲げたのは、外ならぬ自分なのだ。人の心を読むと
いう文学の教職に就いていながら、自分の人生のたった一
人の伴侶である妻の心さえ踏みにじり、拘束し続け、汚し
てしまったのだ。
取り返しのつかない過ちを犯し続けてきたのだ。ウテナ
の心が狭くなったのは、全て自分に責任がある。私が可愛
がったのは、唯一、小学校時代の玲維だけだった。何度玲
維だけ連れて家を出て行こうとしたか。ところがその玲維
さへ、自分を冷たく見ていたのだ。
私が反省した時は、既に手遅れだった。ユリカがこの家
を出て行かなければならなくなったのも、もとを正せば自
分に責任がある。いつの間にか家族は、唯血が通っている
だけの、誰に対しても愛も信頼の欠片もない、世間体を憚
ってだけ一つ屋根の下に寄り集まっている、ガラクタ人間
の寄り合い世帯になっていた。
その憚りの最たる犠牲者がユリカだ。私は誰一人救えな
い。一家の主の責任がいかに大きなものかに気が付いた時
は手遅れだった。ユリカは、吾が家で一番文学的才能のあ
る子だということは、あの子が幼少の折りから感じていた。
私よりも洞察力も感受性も鋭く深い。それ故にあの子の悩
みも量り知れない。まともに育てば、大物になれる器だっ
た。
唯一人で純真無垢にあがいている吾が子を、何も手
助けせずに放り出したと思われることに、私はこれ以上耐
えられない。永遠の自己欺瞞で終わりたくない。しかし、
この家にいては、人格が崩壊するだろうと心配したのだ。
アイデンティティークライシスという奴だ。私に出来る唯
一のことは、放り出してやることしかなかったのだ。
自分の子を自分で育てられないとは情けないが、どうし
ようもないのだ。あの子を女の子にしておけば、たとえ子
供を産めなくても、心の優しいウテナのような娘になって
いた筈だ。しかし、人間の発育は一筋縄でいくものではな
い、こうなるとは思ってもいなかったのも事実だ。
あの子をライオンにしてしまった。自我を建て直して欲
しい。自由に生きて欲しい。女へのバリヤーをはね除けて
欲しい。そして思うまま、私に復讐して欲しい。あの子を
女として鍛えてやれないのが残念だ。私は教育者としては
勿論のこと、人間失格だ。このことに今やっと気付いた。
この愚かなる父のもとで、まともに育ったのは、唯一ユ
リカだけだ。あれだけ足枷手枷を嵌められながら、ひがむ
ことなく、誰を恨むでもなく育ったのは、一種の奇蹟では
ないだろうか。ユリカは、運命の花だ。」
ユリカは、部屋に戻ると、物思いに耽った。
『ワタシの心に暖かみと愛の想いが戻るのがいつの日か
と待ち望んでいる。心奥で裂けた罅が溶けて欲しい。ワタ
シの外見たる罅割れたる氷よ。これ以上、罅が深まり広が
らないように。
そして流れて欲しい、過去を離れるように、静かに、柔
らかくそっと、少しでも温かい方へ、ワタシを運ぶ舟を揺
らして、小波に、ほのかな彼方へ、舵を取って。』
|
|
|
|
|